ヨーロッパ囲碁ニュース

ヨーロッパの囲碁ニュース・棋戦情報をお伝えします。

囲碁ニュース [ 2020年5月14日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(4)欧州にたどり着いた中国人

ライプニッツと同時代に生きた英国人トーマス・ハイドは、日本では本因坊道策がまだ活躍していたような時代に、如何にして囲碁を発見できたのだろうか?前回紹介した、1694年出版の『De Ludis Orientalibus』に現れる囲碁の技術的な説明に先立って、ハイドは非常に驚くべき事実をいくつか明かしている。

なんとハイドは囲碁の用具一式を自ら保有している、という。それはインドのマドラス(現チェンナイ)のセント・ジョージ要塞総督を務めた英国東インド会社のウィリアム・ギフォードという人物からの贈り物だった。

事実だとすると、まず間違いなく欧州にたどり着いた初めての盤石であろう。マドラスは英国のインドにおける重要拠点の一つで、ギフォードは1680年代に総督を務めた。当時マドラスは綿製品の英国における人気や奴隷貿易の繁栄もあって非常に潤っており、世界中からあらゆる品々が集まる場所だったという。余談になるが、ギフォードと同時代にやはりマドラスで活躍し、総督を務めた人物にエリフ・イェール(1649-1721)がいる。英領だった時代の米国で生まれ、その関係で後に米イェール大学の創設に携わり、その名付け親となった人物である。イェールは墓碑に「アメリカ生まれ、欧州育ち、アフリカを旅してアジアにて結婚、長期にわたり滞在し財を成す。ロンドンで死去」と記されるほどグローバルな生き方をした人だった。こうした人に持ち運ばれて、地球を旅する碁盤や碁石もあったのであろうか。残念ながら、ギフォードがいかにして盤石を手に入れたか、またハイドが何時、いかなる状況下でギフォードから盤石を贈られたかは明らかではないが、恐らくギフォードが総督を務めていた1680年代の出来事なのだろう。

ハイドは、囲碁が「中国で高位の法官や行政官などに嗜まれるゲームであり、政治的・外交的な能力を向上させる効果があるので、サミュエル・パーチャス(1577?-1626、英国の聖職者で、色々な人々の旅行記を編纂した著作を残している)が言及しているように、このゲームに熟達した者は称賛の的となる」と説明する一方、「このゲームについてこれまで様々な本においてなされてきた紹介が不適切で、しかもお互いに矛盾するものだ」と過去の文献を批判、アルヴァロ・セメド(1585?-1658、中国で活動したポルトガル人イエズス会士)、トリゴー、以前紹介したオランダ東インド会社のヤン・ニーホフの文章をそれぞれ引用している。

サミュエル・パーチャスが1625年に出版し、リッチ=トリゴーの囲碁に関する説明を借用している『Hakluytus Posthumus, or Purchas his Pilgrimes』の表紙部分。パーチャス自身は「生まれ故郷であるエセックス州サクステッドの周囲200マイル以上遠くに出かけたことがなかった」と語るが、多くの資料に基づいて巨大な旅行記を編纂。ほかの著作の中では日本にも触れているという。
アルヴァロ・セメド。明末の中国で布教を行い、その著作『中華帝国誌』はスペイン語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語に訳され、広く読まれた。

実は、セメドおよびニーホフの文章は、どちらもリッチ=トリゴーの『中国キリスト教布教史』を元にしている(更に言えば、パーチャスもリッチ=トリゴーを元にしている)のであるが、ハイドはそれに気づいている様子はない。つまり、リッチ=トリゴーの原文の曖昧さが祟ったのか、もしくは後世の訳と解釈とがまずかったせいなのか、時間と共に意味がずれてしまい、すべての文章が「お互いに矛盾」するに至ってしまったのである。

「しかし、このゲームについて、より完全で正確な説明をすることができる」と、ここでハイドは誇らしげに宣言する。情報を提供してくれたのは、Shin Foçungという名の、「教養浅からぬ中国出身の人物」だという。

この「Shin Foçung」なる人物については、中国には何の記録もないが、ありがたいことに欧州側には本人がトーマス・ハイドと交わした書簡を含め沢山の資料が残っている。手紙に残る本人の署名によると、名は「沈福宗」と書く。記録にある限りでは、欧州に初めてたどり着いた中国人の一人である。

沈福宗。英国滞在中に、国王ジェームズ2世の注文で肖像画家ゴドフリー・ネラーが描いたリアリズムに満ちた肖像画。国王の寝室に隣接する部屋に飾られていたという。

沈福宗は1657年、南京に生まれた。父親はキリスト教に改宗した医師で、沈福宗もその信仰を引き継ぎ、若くしてラテン語の素養も身につけた。その才能に目をつけたのが、1659年以来中国で活動していたフランドル出身のイエズス会士フィリップ・クプレであった。クプレは1681年、ある任務のために欧州に戻ることになるが、この際に若き沈福宗を帯同する。そこには政治的な目的があったという。クプレの任務は2つあった。第1の任務は、ローマ法王に対して、ポルトガル王に与えられていた特権の廃止を求めるべく働きかけること。ポルトガル王は、中国で活動するイエズス会士を叙任する権限を法王から与えられていたが、実際に中国で布教活動するイエズス会士にとってみると、この特権が邪魔となって現地出身の司祭を活用することもできず、ひいては中国語を用いるなど現地文化に適応した布教もできない、という弊害があった。第2の任務は、科学的な専門性を身につけたイエズス会士の派遣をフランスなどのカトリック教国に要請することであった。この時代、クプレ同様フランドル出身のイエズス会士フェルディナント・フェルビースト(1623-1688)がその数学や天文学などの類まれなる才能で康煕帝の信頼を得ることに成功しており、フェルビースト自身がクプレに後継者の派遣を要請するよう依頼したのであった。さてこうした中で、中国古典の教養を持つとともに、完璧でないながらも流暢にラテン語を話したという才能あふれる沈福宗を通じて、クプレは中国にも布教能力のある人々がいる、ということを証明しようとした。またクプレは中国文化の偉大さを示すために、数多くの中国の文献や品々をも持ち込み、訪問国の君主への贈答品として捧げたのだった。

2年弱にわたる波乱万丈の航海の後、二人は1683年に欧州にたどり着く。翌年訪れたフランスではルイ14世の大歓迎を受けた。当時の記事によると、沈福宗は太陽王がヴェルサイユ宮殿において開いた晩餐会に龍の文様を施した華やかな中国服を纏って出席。中国語での祈祷を聞かせたほか、象牙製の箸を使ってみせ、王を大いに喜ばせたという。ルイ14世はクプレの要請を受け入れ、イエズス会士の派遣を約束した。一方で、続いて1685年に訪れたローマでは、法王インノケンティウス11世が中国人司祭の叙任や中国語での布教などに関するクプレの要請を拒否した。インノケンティウス11世はルイ14世と対立関係にあったといい、ポルトガルの勢力を削ってフランスを助長するような動きを嫌ったのかもしれない。このためクプレと沈福宗は、ほかの可能性を求めて欧州滞在を延長することになった。両者は、再びフランスを経て、1687年には英国に向かう。当時の英国王は、ジェームズ2世。王位には2年前に就位したばかりで、翌年には名誉革命で追われるという短命政権に終わった王である。ジェームズ2世は、国教会が支配的な英国にあって敢えてカトリックを信仰、これが革命の原因となるのだが、クプレはイエズス会士として、カトリック王の支援をあてにして英国訪問を決めたのだった。沈福宗はクプレに先立って、1687年3月にロンドンに到着する。クプレは同年、同僚のイエズス会士がラテン語に訳した『大学』『中庸』『論語』を『Confucius Sinarum Philosophus(中国の哲人、孔子)』として編纂しパリで出版、欧州全体で大きな反響を呼んだ。

クプレと沈福宗の欧州行脚は大きな話題を呼んでおり、オックスフォード大学ボドリアン図書館館長だったトーマス・ハイドも、フランスの友人との文通などを通じてこれを聞き及んでいた。特に沈福宗に興味を抱いたハイドは、1687年5月に本人にラテン語で手紙を出し、オックスフォードに招待する。2ヶ月来ロンドンに滞在していた沈福宗は快くこれに応じ、6-7月にかけての6週間をオックスフォードで過ごすことになる。ボドリアン図書館には17世紀初頭以来、東インド会社の人々などから寄贈された中国語の書籍が100冊あまり存在したが、当然ながら誰もその内容を理解できない状態だった。ハイドは、沈福宗にその目録作成を仕事として依頼し、高額の報酬を約束した。二人はラテン語を通じてコミュニケーションを取り、沈福宗はハイドに対して、中国の本についてどちらから読むかなどの基本から教えたという。一方で、好奇心旺盛なハイドは、博学で篤実な沈福宗を質問攻めにしたようだ。中国における言語について、数字、度量衡について、キリスト教に関する中国語の文書について、暦について…話題は尽きなかった。

『中国の哲人、孔子』の口絵。クプレは編纂に加え前文などを担当した。

ゲームもそうしたテーマの一つで、ハイドが沈福宗をオックスフォードに招待した手紙には、象棋の駒の上に書かれた漢字に関する質問が記されていた。『De Ludis Orientalibus』における象棋の説明はかなり正確だといい、二人は対局もした、という。その反面、前回見た囲碁の説明からすると、沈福宗は囲碁を中途半端にしか知らなかったのだろう。イタリアのゲーム史家であるプラテシ氏は、「沈福宗はせいぜい、目録作成をした中国文献の中にちょっとした囲碁の説明を見つけて、それをハイドに伝えた程度だったかもしれない」と推測する。ちなみに今でも、好奇心の強い欧州人に質問攻めにされたアジア人が、マスターしきれていない欧州の言語で必死に、誠実に答えようとして、しかし思ったような答えが返せずに悶々とする構図があるけれど(ピンとこない方は、遠藤周作の『留学』にこの典型的な描写があるので是非参照してほしい)、二人の手紙のやりとりを見ると、沈福宗はその初めての「殉教者」だったのだろうか、などと勝手な想像をしてしまう。

沈福宗がオックスフォードの滞在を終えてロンドンに戻った後も、ハイドとの文通はしばらく続く。相変わらずハイドが沈福宗を質問攻めにして、沈福宗は何とか「欧州のペンの持ち方をあまり知らないものですから」と苦しい言い訳をしつつ数週間に一度返答する、というスタイル。クプレと沈福宗は、1688年4月にロンドンを離れ、中国への帰還を目指してリスボンへと発つ。名誉革命によってジェームズ2世がフランスに亡命を余儀なくされる半年ほど前のことであった。政情不安で、英国に残る意味がなくなったのかもしれない。

リスボンでは中国への出発許可がなかなか下りず、二人共数年を当地で過ごすことになる。沈福宗はこの間、正式にイエズス会士となるための研鑽を積む。沈福宗は手紙の中で、ハイドに対して「リスボンから返事をする」と書いているのだが、その約束が守られることはなかった。再びプロテスタント国家に戻った英国との文通は、イエズス会士になることを目指す沈福宗にとって危険な行為になってしまったのだ。クプレは、そもそもの任務がイエズス会に対するポルトガルの影響力を削減することであったために、苦しい立場に置かれる。二人は数年後、ついに別々に出発許可を得て航海に乗り出すが、その最期は悲劇的だった。1691年に出発した沈福宗は、モザンビークにたどり着く直前で感染病により命を落とす。一方クプレも、その2年後に中国に旅立つことを許されるが、インドのゴアにたどり着く直前に、嵐の中で非業の死を遂げた。トーマス・ハイドは、沈福宗が英国を離れた後にたどった運命については知らなかったが、沈福宗から得られた貴重な情報を、『De Ludis Orientalibus』だけでなくほかの著作でも紹介しつつ、その名を引いて感謝を捧げている(以上については、主に以下のページを参照した:http://www.britishchineseheritagecentre.org.uk/insights/item/michael-alphonsus-shen-fu-tsung-fuzong-the-first-recorded-chinese-man-visiting-britain 、https://ora.ox.ac.uk/objects/uuid:6ce9489d-9858-4543-a31d-69b2962b05bahttps://www.bl.uk/eblj/2015articles/article9.html)。

『De Ludis Orientalibus』にあらわれる囲碁の紹介は、ハイドという好奇心の塊のような東洋の専門家と、イエズス会の政治的打算によって欧州に連れてこられた教養人の沈福宗といういわばグローバル化の申し子同士の出会いの産物であった。また二人の遭遇は、ジェームズ2世というカトリックの王がわずか3年間英国に君臨したおかげで可能となるなど、多くの偶然が重なったおかげなのだった。

さて、クプレと沈福宗の働きかけのおかげで、ルイ14世は1685年に、科学に精通するイエズス会士6人を中国に派遣する。その中には、ライプニッツと1697-1707年にかけて文通し、易経の存在を教えて2進法のインスピレーションを与えたというジョアシャン・ブーヴェ(1656-1730)もいた。ライプニッツがハイドの著作を直接読んだことがあるとは思えないが、ブーヴェのような人物から囲碁に関する情報を得ていたのかもしれないし、各国の東インド会社を経由した情報が耳に入ってきていたのかもしれない。

ハイドとライプニッツの時代、日本はすでに鎖国下にあったし、中国もその後まもなくして、雍正帝が1723年にキリスト教の布教を実質的に禁止、大半の宣教師はマカオや国外に追放され、国際交流に対して後ろ向きな社会となる。こうして、囲碁に関する欧州への情報伝達は途絶えてしまう。それもあって、ハイドの著作は、東洋のゲームに関する権威的存在として19世紀にいたるまで評価され続けた。フランスのジャン=フェリシッシム・アドリー(1749-1818)という人物が1807年に出版した『世界のあらゆる民族における幼児・子供向けの遊戯の辞書』という著作も、100年以上前のハイドの文章を再三にわたって引用し、囲碁についても「Hoy Ki、またの名をWei Ki」として紹介している。なおアドリーは、「このゲームには手段の可能性が非常に多く存在すると思われるが、試しにプレーしてみるのは容易であろう」との感想を最後に加えている。(続く)

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年5月8日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(3)ライプニッツとリッチをつなぐ「失われた鎖」

前回、中国で活躍したイエズス会士のマテオ・リッチ著、ニコラ・トリゴー訳・編の『中国キリスト教布教史』に現れる囲碁の描写を紹介した。この本が出版されたのが1615年。そして、ライプニッツが『Annotatio de quibusdam Ludis』の中で囲碁を紹介したのが1710年で、実にほぼ1世紀の差がある。ライプニッツはリッチ=トリゴーの文章を引用しているが、その囲碁に関する分析はリッチ=トリゴーのそれよりも遥かに進んでいるように見える。また、囲碁を打つ人々を描いた中国の挿絵版画を挿入している、という事実も非常に興味深い。というのも、これは実際にやってみると分かるが、絵画を集めた本の中から囲碁を描いた絵を探し出す、という作業は存外大変で、そもそも囲碁がどのような形をしているかを知っていなければいけないし、普段から「囲碁はないだろうか」と頭の片隅にでも気にかけていないとなかなか見つからないものなのだ。こういったことから、ライプニッツの知識を増進させた何者か、何か2つの文書をつなぐいわゆる「失われた鎖」のようなものがあるのではないか、という予感がする。

その「失われた鎖」そのものではないかもしれないが、ヒントとなるようなラテン語の著作が1694年に英国で出版されている。その名も、『De Ludis Orientalibus(東洋のゲームについて)』。著者は、トーマス・ハイド(1636-1703)という、ライプニッツとほぼ同時代に生きた人物である。この中に、リッチ=トリゴーのように人づてに聞いたような説明ではなく、自ら体験した囲碁の説明が現れるのである。

歴史的に見て早い時期に欧州で囲碁に興味を持った人というのは、さすがに特殊な才能を持った人々が多いが、トーマス・ハイドもその一人で、一言でいうと桁外れの語学の天才であり、国外に出たことにはなかったにもかかわらず、多くの東洋の言語をマスターしたという人物である。以下は主にWikipediaからの情報であるが、子供時代に牧師であった父親から東洋言語を複数学び、さらにケンブリッジ大学においても様々な言語を習得。若くして多言語聖書(1652-57年にかけて実施された大プロジェクトで、ヘブライ語、アラム語、サマリア語、シリア語、アラビア語、ペルシア語、エチオピア語、ギリシャ語、ラテン語の9言語による聖書が作成された)のアラビア語、ペルシア語、シリア語の校訂を行った。このほか、ヘブライ語、トルコ語、マレー語といった言語にも長じていたという。その才を活かし、王政復古や名誉革命が発生した政治的に複雑な時期に、チャールズ2世、ジェームズ2世、ウィリアム3世という3人の王の下で東洋からの来賓があった際の通訳を務めたほか、オックスフォード大学ボドリアン図書館館長ともなった。その関心は東洋の言語だけでなく宗教、社会制度などにも及び、中でも『古代ペルシア人の宗教の歴史』(1700年)においては、それまで欧州では古代ギリシャ・ラテン語の文書を通じてのみ知られていたゾロアスターについて、ペルシア語の文書からの知識をもたらした。

トーマス・ハイド。死後、1767年に出版された著作集に見られる版画。

さて、ハイドの『De Ludis Orientalibus』は東洋のボードゲームを紹介する著作で、2部構成となっており、第1部は主にチェスの歴史(ハイドは「チェスがインド起源である」という説を唱えた初めての人物であるという)を扱い、中国の象棋なども説明。第2部ではそれ以外のボードゲームを扱っている。囲碁は第2部、ドラフツの部の最後の部分に置かれており、7ページほどが割かれているそうだ。丸い石をゲームで使うので、チェスではなくドラフツの仲間と見なしたのだろうか。それはともかく、イタリアのゲーム史家で、欧州における囲碁の歴史に関する巨大な著作も残しているフランコ・プラテシ氏の解説(http://naibi.net/d/index.html)を主に参照しつつ、その内容を紹介する。

あくまで個人的な感想であるが、このハイドによる囲碁の説明は新鮮な驚きに溢れていて、内容には勿論ケチのつけようがいくらでもあるが非常に楽しい。ついては、まず是非原文を見てほしい(https://www.babelstone.co.uk/Ludus/Hyde1694.html)。ラテン語が分からずとも、とても面白い図が2つ載っていて、それだけでも見る価値がある。

第1の図は、19路盤の盤面を示している。石は置かれておらず、星も記されていないようだ。しかし天元周辺に、「緯碁 Wei kî」と、漢字とアルファベットが併記(!!!)されている。

第2の図は、なかなか謎めいている。上の列には、「囬碁 Hoy kî」「眼 yèn」「完了 huán leáo」という3つの単語がやはり漢字・アルファベットを併記しつつ並べられている。一方下の列には、以下のようなポジションが3路盤(?)の上に並べられている。左(図2-1)は一見意味不明だが、右(図2-2)はこうすると石が取れますよ、と教えてくれているものと推定できる。

また、上列の「眼 yèn」という単語からは「👉」という指差しマークが延びていて、図2-2とつなげられている。図の下にはラテン語で「Oculus(眼)」と書かれており、石を取ると、眼ができますよと言いたいらしい。左の図2-1の下には「Mos collocandi principio」と書かれているが、これはどうも「始めるにあたっての置き方」といった意味であるらしい。一体これは何であろうか?

図2-1
図2-2

ハイドは、19路盤の盤面を示した第1の図に続いて、
「このゲームは戦争のゲームであり、盤は、中国人と韃靼人の戦場を表している」
と記している。また、用具について360個のガラスの丸い駒を使う(石については、これ以外にも「兵士」という単語で言い換えられている)、盤の大きさは約2フィート(約60センチ)で、石が18個並列できるような幅になっている、といった説明を加えている。続いて、
「このゲームは、『囬碁 Hoy kî』、または、『緯碁 Wei kî』と呼ばれる。どちらも、円、回転、循環のゲーム、といった意味だが、これはむしろ包囲する、と解するのが正しいだろう。というのも、この名前はルールに関係していて、ある1つの石が敵の4つの石に囲まれると、取られるのである」
と囲碁の名前と基本ルール、そしてその関係性を説明する。

現代中国語では、囲碁は「囲棋 Weiqi」である。「囬碁 Hoy kî」「緯碁 Wei kî」という名前は漢字、発音の両面から見ると、似ているような似ていないような感じである。「囬碁 Hoy kî」は日本の「囲碁」の読み違いではないか、という指摘もあるようだが、これらについては寡聞にして分からず、専門家の方々のご意見を待ちたいと思う。

摩訶不思議な第2の図について、であるが、ハイドはまず右、図2-2について案の定石の取り方を説明すると共に、これが「眼」であり、「勝つためには、この状況を再現し、眼を作ることが必要なのだ」、と強調する。図2-1については、「簡単に対局開始時のポジションを示し、黒と白が二子ずつを互い違いに四隅に置きあった状態で対局を始める」と説明している。これはどうも、20世紀の頭まで中国において用いられていた事前置石制を、3路盤の上で強引に表している、ということのようだ。

かつての中国における事前置石制。この状態から、白が第一着を打つ。

これに続くハイドの説明は以下のようなものだ。

  • プレーヤーは眼を作り、敵石を捕獲することを目指す。
  • それぞれのプレーヤーは、小さな容器に入った180個の石を持ち、それを一つ一つ取り出していく。すべての石が初めから盤上に置かれる必要はない。
  • 通常、対局は盤の中央からはじまる。石を置き、それを「プロモート」して、敵の石を包囲し捕獲するのに技術が必要である。
  • お互いが、敵石の捕獲に有効であろうと思われる場所に交代交代に石を一つずつ加えていくので、二人のプレーヤーにとって、敵石を捕獲する、または勝利する確率はまったく同じである。また、プレーヤーがすべての石を置き終わる前に、石が捕獲される可能性もある。
  • このゲームは、2つの軍隊がある地域を巡って争う姿を表現しており、片方のプレーヤーはあらゆる機会を利用して敵の全体または一人の兵士を包囲・捕獲しようとするのである。
  • 上に述べたように、石の逃げ道がなくなると、眼が形成され、石が取られる。斜めの方向は逃げ道とならない。従って、すべての逃げ道を塞いでしまうことが必要だ。
  • 眼を一つ作らなければならないにもかかわらず、盤上に十分な石の数がない、という場合には、新たな石を容器から取り出すことになる。
  • 多くの敵石が盤上のあるゾーンを占領している場合は、ほかの場所に向かったほうがよい。しかしそうした場合、敵も直接攻撃もしくは罠をしかけて戦闘を展開すべく、石を置いて相手を追いかけることになる。
  • 結果がもう変更できない場合、勝者は「完了 huán leáo」と宣言する。「Wei」という言葉でもそうであるが、中国語の「完Huán」は「終り」「終わらせる」「すでに終わっている」など複数の意味を持ち、文章の構成によってのみ意味を区別できる。一方、「了leáo」は単に過去を示す小詞である。
  • 続いてプレーヤーは、占有された陣地(「平原」にあたる言葉が用いられている)と、生存している石(「兵士」にあたる言葉が用いられている)を共に数える。二人のプレーヤーの陣地が明らかに異なる場合は、石を数えるだけでよい。より大きい陣地を持ったプレーヤーは「私はこれだけの部分を持っているが、あなたのはより少ないので、私の勝ちだ」と言う。しかし、片方のプレーヤーの陣地が少なくても、生存した石の数がより多ければ、このプレーヤーの勝ちとなる。
  • こうした説明から、このゲームが偶然や運にはまったく左右されない、純粋な技術のみに頼るゲームであるであることは明らかである。

すっきりしない説明であることは確かで、正しい点も誤っている点もあり、またはっきりしない点も多々あるが、以下のようなことが言えると思う。

  • ハイド自身は、囲碁が「陣取りゲーム」だ、ということは恐らく理解していない。「敵石を捕獲し、眼を形成すること」の重要性が繰り返し強調されていることからもそれが見て取れ、これを読んだ人の中には、むしろそれがゲームの最終目的だ、と勘違いする者も多いかもしれない。一方で、一応、終局後の整地らしき手続きにも触れており、陣地と石の数を数えて多いほうが勝ち、という中国ルールに沿ったような説明がなされている。
  • 「石を置き、それを『プロモート』して、敵の石を包囲し捕獲する」、という文章があるが、この「プロモート」という言葉の意味が不明である。しばらく後に、「眼を作るために盤上に十分な石数がない場合には、新たな石を容器から取り出す」という不思議な一文があり、「十分な石数がある場合は盤上の石を移動できる」、と誤解したのかもしれない。「プロモート」には、ゲームの文脈でいうと「駒を成らせる」というような意味合いもあり、何かそれに似たようなことを考えた可能性もある。
  • 図を通じて、交差点に打つことは明示されているものの、碁盤に関して「19」という数字が出てこない。第1線や、1の1に打つことが想定されているかは定かではない。
  • 囲碁を理解する上で重要な要素のうち、主に以下のようなことが触れられていない。
    • 取られた石は、取り除かれること
    • 石と石のつながりと切断について
    • 眼が2つあると生きになること
    • コウのルール。

ルール面を別にすると、以下のような点が個性的で、目につく。

  • 「中国人と韃靼人の戦場」、「2つの軍隊による闘争」、「兵士」といった表現が用いられ、囲碁が戦争に例えられている。
  • 言語の達人であったハイドだけあって、中国語に非常に注目しながら説明を行っている。漢字とアルファベットの併記、発音区別符号(áなど)の利用や、囲碁の名前に2つの言葉を提示していることもそうであるし、「勝者が『完了』と宣言」(「勝ちました」宣言なのであろうか?)する、というのも、普通の囲碁の説明には到底含められないことで、面白い。なおこの本の中では、象棋の紹介においても漢字が用いられている。また、ほかのゲームに関してはアラビア文字、ギリシャ文字、ヘブライ文字も引用されており、単なるゲーム書という枠を遥かに超えた豊かな著作となっている。

ライプニッツが『東洋のゲームについて』を読んだことがあったかは残念ながら定かではない。誰かを通じて、間接的に話を聞いた、というようなことはあったかもしれないが、両者の文章を読んだだけでは、影響は特定できない気がする。いずれにしても、ハイドの文章の情報量はリッチ=トリゴーのそれとは比較にならない。それもある意味当然で、実はハイドは、これらの囲碁の技術的紹介に先立って、ある中国出身の人物から説明を受けたことを明かしている。これは次回に紹介することとしよう。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年5月1日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(2)マテオ・リッチによる囲碁の描写

前回、17世紀後半から18世紀初頭にかけての知の巨人ライプニッツが囲碁について触れている『Annotatio de quibusdam Ludis』を紹介した。ライプニッツはその中で、中国の文人が囲碁を打つ姿を描いた版画挿絵を紹介。続いて、中国で活躍したイタリア人イエズス会士、マテオ・リッチ(1552-1610)がイタリア語で著し、それをフランス人のイエズス会士、ニコラ・トリゴー(1577-1628)がラテン語に訳した文章を引用している。その内容は、以下のようなものだ。

「これらの遊戯の中でも最も真面目なものを以下に紹介しよう。複数人が、300個の升目のある盤の上で、200個の石(注:「石」と「駒」を同時に意味する単語が用いられている)を用いてプレーする。石は白のものと黒のものとがある。これらの石を使って、一方は、敵の石を盤の中央に押しやり、残る枠を支配しようとする。盤上で敵よりも多くの枠を制した者が勝者となる。
官吏はこの遊戯を非常に好み、しばしば一日の大半を費やしている。というのも、強い打ち手同士になると、一局にまる1時間かかるからだ。この遊戯の達人は、ほかの分野で優れていなくとも、周囲から尊敬され、有名人となる。それどころか、人々がこの遊戯をより深く学ぶために、こうした官吏を師として選ぶことすらよくあるのだ。」

ライプニッツはこの文章に、以下のような注釈を加えている。
まず、「複数人が、300個の升目のある盤の上で、200個の石を用いてプレーする」という点については、「300、ではなく、『300を超える』升目と読むべきだと思われる。また打ち手は複数ではなく、二人しかいない。これはリッチによるイタリア語の文章、もしくはトリゴーによるフランス語の文章をラテン語に訳した者の間違いかもしれない」、「版画挿絵を見れば、間違いがわかる。盤は正方形で、その一辺には18の升目があり、従って升目の総数は、300ではなく、18x18=324となる」と指摘している。更に、「それ以外の説明も納得がいくものではない。片方の打ち手が、敵を盤の中央で包囲する、というのは、あくまで一つの可能性であって、必然なものではない」と述べ、真ん中ではなく、隅で包囲する可能性もあるからだ、と囲碁的に見てなかなか鋭いコメントをしている。そして「我々はこのゲームのすべてのルールを知らないのであろうが、石の数の多さ、盤の大きさから見て、このゲームをプレーするにあたっては最高の創意工夫が要求され、最大の困難を伴うことは間違いないと私は信ずるものだ」と述べている。また、「殺戮、流血なしに勝利すること」をライプニッツが評価したのは前回説明したとおりだ。

さて囲碁人としては、
「ライプニッツは、版画の中で、石が枠内ではなく交差点に打たれていることに、疑問を感じなかったのだろうか?」
「ライプニッツはこの版画と、リッチの文章のみを元にこの小論文を作成したのだろうか?」
という2つの疑問がわく。勿論、両方とも答えることは不可能であるが、第1の疑問については、チェスやドラフツは枠内に駒を置くので、「絵の中では交差点に打っているようだが、変だな」くらいにしか思わなかったのかもしれないし、ましてや角や一線に打つ可能性については想像だにしなかったのかもしれない。一方、第2の疑問はなぜ浮上するか、というと、版画内の碁盤を見るに(こうしたミスは囲碁を描いた絵画には頻出するものではあるが)、ライプニッツが言うように「18x18の正方形」ではなく、17x19の線(枠でいうと16x18)が引いてあるからである。ライプニッツは、もしかしたらこの他に、囲碁を描いた絵であるとか美術品、または文章に接していたのかもしれないし、知り合いのイエズス会士の中に囲碁を知っている人がいて、その証言を得たのかもしれない。そもそも、ライプニッツはどうしてこのリッチ=トリゴーの文章を知っていたのだろうか?

これについては、ベルギー囲碁連盟のジョエル・ソーサン氏が著した『17世紀の欧州における囲碁』という記事(https://www.gofed.be/files/belgo%203.pdf)がヒントを与えてくれる。この記事自体は1985年のベルギー囲碁連盟機関紙に発表されたものだが、1982年に『Go World』誌上に発表されたオランダのヤープ・K・ブロム氏の研究をベースにしているという。それによると、17世紀になって、いくつか囲碁について記した文書が欧州に現れるが、そのうち主要なものは2つあり、そのうちの一つが、ライプニッツが引用したマテオ・リッチ著、ニコラ・トリゴー訳の文書であった(もう一つについては、次回紹介する)。

リッチおよびトリゴーが属したイエズス会がイグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)およびフランシスコ・ザビエル(1506-1552)によってパリで設立されたのは1534年。ザビエルがアジアでの布教を目指し、1549-51年にかけて日本にまでやってきたのは御存知の通りである。ザビエルは日本において中国からの思想上の影響が大きいことに注目し、アジアでの布教にあたっては中国での活動が不可欠だ、と考えた。それはなかなか実現しなかったが、その後数十年を経て、ようやく中国本土に長期的に滞在し、本格的な活動を行ったのがリッチであった。リッチは1582年にポルトガルの居留地があったマカオに赴き、中国語と中国文化を学ぶ。その後、中国南部で20年近くを過ごした後、1600年頃北京の宮廷に招かれ、明の万暦帝の信頼を得た。リッチは数学、天文学、地理、音楽など様々な学問に通じていたほか、中国文化にも深い知識を蓄積し、自ら儒者の服を纏って現地に順応しつつ布教を行う道を選んだ。こうした手法が活動の成功につながった、とされる。

儒者の衣服に身を包んだマテオ・リッチ。

ライプニッツが引用した文章の原文は、リッチが1600年以降、1610年に亡くなるまでにかけての最晩年に、イタリア語で執筆した回想録の一部を成すものだという。リッチはイエズス会の同僚に中国についての情報と布教の進捗状況を知らせるために、回想録を著した。その中で、中国風俗の一部として様々なゲームも紹介。象棋といったゲームについての説明に続いて、「これらの遊戯の中でも最も真面目なもの」として囲碁を紹介しているわけである。ただし、文章を見てもわかるように、リッチ自身は囲碁のルールを理解していなかった。ソーサン氏は「もしかしたら、リッチは中国人との会話を通じて、または中国語で書かれたゲームに関する書物を読んで囲碁の存在を知っただけなのかもしれない」と述べているが、確かにリッチが囲碁の対局をじっくりと見つめたことがあるとは(特に「交差点」ではなく「枠」と言っていることからしても)言えないだろう。

リッチの回想録を欧州に知らしめたのが、ニコラ・トリゴーである。トリゴーは丁度リッチが亡くなった1610年頃に中国に赴くが、1613年に欧州に一旦戻って教皇パウルス5世に対して布教に関する報告を行うと共に、新たなイエズス会士を中国に招来することを要請する、という任務を与えられる。トリゴーはこの旅の間、リッチの回想録をラテン語に翻訳。ほかのイエズス会士の書簡なども加えた著作を完成させた。この著作は『中国キリスト教布教史』として1615年にドイツのアウグスブルクにおいて出版されると、中国に関する貴重な専門書として評判を呼び、再版を重ねただけでなく、出版直後からフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語といった言語に翻訳された。ライプニッツは「トリゴーがリッチのイタリア語原文をフランス語に訳し、それを誰かがラテン語に訳した」と勘違いしているようだが、それもこの本について様々な版が出回っていた証拠であるかもしれない。

ソーサン氏によると、リッチのイタリア語原文とトリゴーのラテン語訳の間では微妙な違いが見られる。例えばリッチの原文では囲碁の説明として、「200を超える石を伴う『ゲーム』」である、と記されているが、この『ゲーム』(giuoco)という単語が「一局」のことを示すのか、ゲームそのものを示すのかがやや曖昧であり、つまり「一局で使われる石の数が200を超える」と言いたいのか、「ゲームに存在する石の数が200を超える」と言いたいのかがはっきりしない。トリゴーは後者の解釈を採っているが、これはトリゴー自身も囲碁をまったく知らなかったことを示すのだろう、とソーサン氏は推測する。

ルーベンスが描いたニコラ・トリゴー。
中国語を初めてローマ字で記した。

『中国キリスト教布教史』が大反響を呼んだことに伴い、その中に現れる囲碁の描写も17世紀中に複数の著作で引用されことになる。中でも注目されるのは、ドイツ北西部ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国の領主だったアウグスト2世(1579-1666)がグスタヴス・セレヌスのペンネームの下で著した、ドイツ語初のチェスの教則本『チェスあるいは王の遊戯』にこの部分が引用されていることである。この本は1616年、すなわち『中国キリスト教布教史』の翌年に出版された。

アウグスト2世。

アウグスト2世は、トリゴーのラテン語訳に基づきつつ、「一方は、敵の石を盤の中央に押しやり」という部分を、「一方は、敵の石を盤の中央に追って、囲い」と訳しているそうだ。ソーサン氏は、「囲う、という、石取りのルールを思わせる言葉が加えられていることは、ほかに情報源があったことを示すのかもしれないが、おそらくはアウグスト2世の演繹的思考が導き出した偶然の一致なのだろう」と述べている。その一方で、単なる偶然の一致と思えないのが、ライプニッツが『Annotatio de quibusdam Ludis』の中でアウグスト2世の『チェスあるいは王の遊戯』を褒め称えていることである。ライプニッツは、『中国キリスト教布教史』と『チェスあるいは王の遊戯』の両方を読んで囲碁を発見し、「ほう、こんなゲームがあるのか…」と気になって色々と調べていたのかもしれない。

ちなみに、リッチ=トリゴーの囲碁の描写は、その内容が漠然としていることから、誤解を招くこともあったようだ。例えば、オランダ東インド会社に勤めたヤン・ニーホフ(1618-1672)の手になる中国に関するオランダ語の著作『オランダ東インド会社の中国皇帝付き大使館』(1665年出版)の中では、「盤上遊戯で、盤の中には一つの穴とその周りに300の小さな家があり、白と黒の小さな玉を用いる。一方は玉を使って敵の玉を穴の真ん中に押しやり、すべての家を獲得しようとする」と訳されているという。ソーサン氏は、「当時何よりも人気が高かった、サイコロを使ったボードゲームの類を想像したのだろう」と推定する。

それはさておき、ライプニッツは1680年前後から中国に関心を持ち、中国で活動したイエズス会士と積極的に交流し、中国についての知識を深めた。その関心は、中国語、中国の数学、哲学など広大な範囲に及び、晩年には『中国最新事情』(1697年)、『中国自然神学論』(1714年)といった著作も残している。ライプニッツは遠い中国に欧州を補完する存在を見た。囲碁への興味も、こうした流れの中にある。

ヤン・ニーホフ。中国をはじめ、ブラジル、インド、マダガスカルにまで足を伸ばした。その著作は仏、独、英、ラテン語といった言語に訳され評価されたという。

ライプニッツは、曖昧模糊としたリッチ=トリゴーの文章から出発して、情報不足による誤りや中国に対する憧憬が生む強引な解釈はあるものの、なかなかに鋭い考察を加えた。また、さり気なく中国の挿絵を紹介した点も見逃せない。『Annotatio de quibusdam Ludis』に含まれる囲碁の紹介は長いものではないが、これは、長年にわたる調査と探求の結晶なのではないだろうか。前回、フランス現代哲学の大家ジル・ドゥルーズの「ライプニッツが囲碁についてここまでの知識を持っていたのはとても不思議なこと」という言葉を紹介したが、私も同感であり、その理解度は近代に至って本格的に囲碁が欧州に知られるようになるまで、何者も比肩できない高みにあったと言えるだろう。

ウクライナでの欧州囲碁コングレス、2021年に延期

ウクライナでの開催が予定されていた今夏の欧州囲碁コングレスは、2021年に延期された。コングレスは南西部カームヤネツィ・ポジーリシクィイにおいて7月末から8月頭の開催が予定されていた。新たな日程は今の所決まっていない。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年4月22日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(1)ライプニッツと囲碁

欧州が新型コロナウイルス流行の新たな中心地となる中で、欧州囲碁界では現在のところ、6月までの大会がほぼすべてキャンセルとなり、夏以降の大会の開催も不透明な状況が続いている。プレーヤーは活動の軸足をインターネットに移してサバキ、シノギを図っているが、その分、残念ながらお伝えするべきフレッシュなニュースがほぼ枯渇してしまった。

新鮮なものがなければ古きものを訪ねよう、というわけで、この機会を利用し、特別編として、欧州の囲碁史にまつわる様々な逸話を何回かに分けてご紹介したいと思う。ただし、あくまで手元にあるわずかな資料と、インターネット上での検索のみを元にした作業であるため、学術的な価値を目指したものではないことをはじめにお断りしておく。

第1回は、「ライプニッツと囲碁」。

ライプニッツ。

もう数年前のことになるが、哲学を専門とする友人が「ライプニッツが囲碁について語っている文書が手に入ったぞ」といってあるpdfファイルを送ってくれた。面白そう、と思った反面、正直、困ったなと思った。哲学は専門外でまるで何も知らないし、そもそも原文がラテン語で、こちらが読めないのは当然として、付された英語訳も直訳風の非常に読みにくいものだったからだ。外出制限で家に缶詰になっていなかったら改めてとりあげる気もしなかったであろう、まさに塞翁が馬。

とそれはともかく、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)はドイツの哲学者、数学者、政治家、外交官で、「デカルトやスピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である」とWikipediaにある。「最後の万能の(ユニバーサルな)天才」とも呼ばれるという。

大雑把に同じ世代の人々としては、欧州ではスピノザ(1632-1677)のほか、ロック(1632-1704)、ニュートン(1642-1727)、ルイ14世(1638-1715)、モリエール(1622-1673)、ピョートル大帝(1672-1725)、中国では康煕帝(1661-1722)、日本では徳川綱吉(1646-1709)、徳川光圀(1628-1701)、松尾芭蕉(1644-1694)、関孝和(?-1708)、囲碁界では黄龍士(1651-1700?)、本因坊道策(1645-1702)、渋川春海こと安井算哲(1639-1715)といったあたりが挙げられる。欧州も、中国も、日本もなかなか華やかな時代である。一方で、ライプニッツの生きたドイツは、悲惨な宗教戦争である三十年戦争が1648年に終わったばかりで、小国分裂状態が続きフランスなどの後塵を拝していたが、その分復興に向けたエネルギーの渦巻く時期でもあったようだ。

ライプニッツの業績は、というと、これまたWikipediaの引用になるが、「17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる」。このほかでは、2進法の研究なども高く評価されているようだ。ライプニッツは、君主、学者など様々な同時代人と文通。非常に多くの分野に興味を持ち、欧州だけにとどまらず中国の数学、哲学などにも積極的に興味を示した。「万能の天才」と呼ばれる所以である。

「モナド(単子)」「予定調和」「弁神論」といった考えが中心を成すその哲学に関して、フランスでは、やや後の世代となるヴォルテール(1694-1778)の風刺小説『キャンディード』に現れるパングロス先生のモデルになった、ということがよく言われるようだ。パングロスは、主人公キャンディードの家庭教師で、「この世はあらゆる世界の中でも最善で、起こることすべてが最善なのだ」と、いかに悲惨な状況にあっても楽観主義にしがみつく、というある意味ヴォルテールの皮肉の的を凝縮したような存在だ。勿論、ライプニッツの哲学そのもののニュアンスはやや異なるようであるが、IA流といって猫も杓子も三々に入るのと同じで、一般にはそういう理解のされ方をしていたのであろう。

前置きが長くなったが、ライプニッツが囲碁について触れた肝心の文章について見てみよう。題名は『Annotatio de quibusdam Ludis(あるゲームについての注解)』といい、副題に「特にある中国のゲームについて、またチェスとラトルンクルス(注:「泥棒ゲーム」という古代ローマのゲーム)、新たな種類の艦船ゲームについて」と続く。実は、『ゲーム覚書』というタイトルで日本語訳も出版されているようなので(『ライプニッツ著作集 第II期 第3巻 技術・医学・社会システム』、2018年、工作舎)、興味のある方はそちらを参考にしていただきたい。執筆時期は1710年と、ライプニッツの最晩年にあたり、ライプニッツの提案で創立されたプロイセン科学アカデミーの機関紙『Miscellanea Berolinensia(『ベルリン論叢』)』の中で発表された小論文の一つであるようだ。

ライプニッツは冒頭、「人間が最も創意工夫にあふれているのは、ゲームの機会にほかならない、ということに我々はしばしば気づかされてきた。だからこそ数学者が、ゲームに対して、ゲームそのもののためではなく、発見術(注:数学的手法を通じて真実を発見するための手段、という意味で、ライプニッツにおいて一つのキーワードとなっている)として、注目する価値があるのだ」と述べる。これはライプニッツが好きな言葉であったのか、最晩年の大著『モナドロジー』の執筆を依頼したほどのライプニッツ・ファンであったというフランス人ニコラ・レモンに宛てた手紙の中でも、「これは何度も述べてきたことですが、人間はゲームや戯れ事において最も創意工夫を発揮するように見えるのです、哲学者もそれを活用して、教養と思考力とを高めなければなりません」といった言葉が見える。

ライプニッツはこれに続いて、ゲームをいくつかの種類に分類し、「運に左右されるゲーム(注:サイコロを使ったゲームなど)は、確率の計算に特に有益だ」、また「ゲームの中でも、運と、技術を組み合わせたゲーム(注:ライプニッツはこの例として、バックギャモンの祖先であるトリックトラックを挙げている)は、人生に最も似ている」と述べ、特に、軍事や、医療では技術だけでなく偶然の出来事も関係するものだ、と語る。この次に来るのが、全く運の要素がなく、技術だけが頼りになる、ある意味科学的なゲームで、ライプニッツはその代表としてチェスを挙げる。そして、同じ文脈の中で、囲碁も語られることになる。

ライプニッツは、囲碁の名前を知る術がなかったのだろう、ただ「ある中国のゲーム」と呼んでいる。そして、囲碁の姿を紹介するために、わざわざベルリン王立図書館所蔵の中国絵画を納めた本の中から、中国の文人が囲碁を打つ姿を描いた版画挿絵(https://www.milestone-books.de/pages/books/003075/gottfried-wilhelm-leibniz/miscellanea-berolinensia-ad-icrementum-scientiarum-ex-scriptis-societati-regiae-scientiarum)を記事に挿入している。五代十国の画家、周文矩による『重屏会棋図』を想起させるような絵だ。

ライプニッツは続いて、囲碁が運に左右されず、技術だけで勝つべきゲームであること、また盤上から石や駒を徐々に取り除いていくのではなく、盤上を埋めつつ相手を囲うゲームであることを説明。勝者は、相手から動きの自由を奪った者で、いわば「殺戮も、流血もなく」勝たなければならず、これはほかのゲームにも存在する性格ではあるが、このゲームにおいてはそれがルールなのだ、とその特徴を強調する。

欧州で一般に広まっているチェスやドラフツと違い、相手を捕まえ、取り除くことが最終目的ではないことに、ライプニッツは特に興味をそそられたようであり、囲碁の説明の最後の部分で改めてこの点に触れ、「このゲームを生み出したのが、殺戮を嫌悪し無血の勝利を望んだというバラモン(司祭)である、という説は信用できる。東インドでは、戦争において殺人を避けることが決まりとされるなど、多くの人が、キリスト教徒を自称する人々よりもキリスト教的な行動をすることは知られている」との説を展開している。また数年後、ニコラ・レモンに宛てた手紙の中で、「私が、『ベルリン論叢』の中で、中国人のゲームについて述べた事柄を御覧になったかもしれません。このゲームでは、戦うことをせず、自分から閉じこもったり、相手を飢えさせたりして、要するに、相手の降伏を強いるのです」と述べている。

フランス現代哲学の大家の一人であるジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、ライプニッツについての1987年の講義の中で、以下のような余談(https://www.webdeleuze.com/textes/137)を披露しているそうだ。
「17世紀に、主要なゲーム理論の構築が始まり、ライプニッツもこれに貢献しました。ライプニッツの博識を示す言葉を紹介しましょう。なんと、ライプニッツは囲碁を知っていたのです。大変興味深いことです(笑)。ライプニッツは、とても驚くべき小論文の中で、囲碁とチェスを比較し、「つまるところ、2種類のゲームがある」と言っています。ライプニッツ自身は、「囲碁」という単語を用いず、「ある中国のゲーム」と呼んでいますが、囲碁とチェスの違いについて…そして、その説明は非常に正しいのですが…、チェスは、「捕まえる」ゲーム、すなわち駒を取るゲームである、(…)チェスとドラフツでは取り方は異なったり、ゲームによって色々な取り方が存在しますが、これらはいわゆる捕獲ゲームであるのに対して、囲碁では、相手を捕まえる、というのではまったくなく、孤立させ、無力化し、囲むのだ、と言っています。ライプニッツの「博識な言葉」と言いましたが、というのも、20世紀の初めに出版されたルイ・クチュラ(1868-1914)によるライプニッツの校訂本を見ると、クチュラは数学、ライプニッツについて共に非常に優秀な専門家だったにも関わらず、ライプニッツによるこの中国のゲームについての説明に関しては、「これこれこういう著作を参照」と記し、囲碁について少しばかり記述したついでに、「中国の専門家が我々に説明したところによると、こういうゲームだそうだ」と頼りない解説をするにとどまっているのです。つまり、クチュラの時代には囲碁は全然知られておらず、囲碁がフランスに入ってきたのは非常に最近のことで、(ライプニッツが囲碁についてここまでの知識を持っていたのは)とても不思議なことと言えるでしょう。」
ドゥルーズの話が、『Annotatio de quibusdam Ludis』を念頭においていることは言うまでもない。

さてライプニッツが理解した囲碁のルール、とはいかなるものだったのだろうか。実は、ライプニッツはこの文章の中で、囲碁の説明として、中国で活躍したイタリア人イエズス会士、マテオ・リッチ(1552-1610)が著した文章を仏人のイエズス会士、ニコラ・トリゴー(1577-1628)が訳したものを引用し、これに批評を加えている。これについては、次回紹介することにしよう。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年4月3日 ]

欧州青少年選手権、クロアチアで開催

3月11-14日にかけて、クロアチア・ザグレブ郊外の保養地ストゥビチュケ・トプリツェにおいて欧州青少年選手権が開催された。クロアチアは数年来、ダミール・メダック氏のイニシアチブの元で積極的な囲碁普及活動を行っている。イタリアにおいて新型コロナウイルスの感染拡大が問題となり始めた時期だったが、なんとか開催にこぎつけた。全体では162人が参加し、例年と比べても大規模な大会となった。このうち、イタリアなど一部国の選手は、インターネットを通じて参加し、不正防止のためにビデオでの撮影を義務付ける、といった措置がとられた。

会場の様子。(欧州囲碁連盟、クロアチア囲碁連盟、以下同)
クロアチア・チームはユニフォームを揃えて大会に参加。

6回戦の結果は以下の通り。

12歳未満(参加者:64人)
順位 名前 段位 勝敗
1 フセヴォロド・オフシェンコ 2d ウクライナ 5-1
2 アスカル・フサイノフ 3d ロシア 5-1
3 エゴール・ラヴロフ 2d ロシア 4-2
4 アルトゥール・ギマディエフ 1d ロシア 4-2
5 ルスラン・タラソフ 1d ロシア 4-2

先日、ルーマニアの冬季囲碁フェスティバルで大活躍したオフシェンコ2dが2連覇を果たした。フサイノフ3dは最終戦でオフシェンコ2dに勝利、同率ながら2位に終わった。2位以下をロシア勢が占めるのは例年の構図である。

16歳未満(参加者:61人)
順位 名前 段位 勝敗
1 リンヴ・トゥ 4d フランス 5-1
2 アレクサンドル・ムロムチェフ 2d ロシア 5-1
3 ダヴィデ・ベルナディス 2d イタリア 4-2
4 ラフマート・デメンシン 2d ロシア 4-2
5 アルテミー・ピシュシャルニコフ 2d ロシア 4-2

フランスのトゥ4dが優勝した。フランスの選手が青少年選手権で優勝するのは2003年以来。ロシアのムロムチェフ2dが同率で2位。またイタリアのベルナディス2dが3位に入賞したのが注目される。

20歳未満(参加者:37人)
順位 名前 段位 勝敗
1 アントン・シェルニフ 6d ロシア 6-0
2 シナン・ジェポフ 5d ブルガリア 5-1
3 エリアン=ヨアン・グリゴリウ 6d ルーマニア 4-2
4 ギヨーム・ウジエ 3d フランス 4-2
5 メジン・サフヴァ 2d ロシア 4-2

ロシアの強豪シェルニフ6dが全勝優勝、これにブルガリアのジェポフ5d、ルーマニアのグリゴリウ6dが続いた。

各部門の優勝者。左から、U12のオフシェンコ2d、U16のトゥ4d、U20のシェルニフ6d。
参加者マップ。欧州45都市から参加があった。
開会式にて。第6回となる、インターネット青少年国別対抗戦の表彰式が行われた。第1-5回はロシアが優勝していたが、今回はドイツが全勝優勝を果たした。大会には16カ国が参加した。
グループ写真。

新型コロナウイルス禍:インターネットでの大会が盛況

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大が3月以降欧州で激化、大会が相次いでキャンセルとなっているほか、外出制限でクラブ活動もままならない中で、囲碁界はインターネット上での活動に軸足を移している。

▽コロナカップ
チェコのルカシュ・ポドペラ7dが音頭をとって、インターネット上での大会を開催している。その名も、「コロナカップ」。欧州らしいユーモアである。イエナ囲碁スクール、チェコ囲碁協会が協賛し、参加者は、なんと360人に達した。時間設定は45分+秒読みという早碁である。
対局は3月最終週に始まっており、5回戦または6回戦で、5月頭までにすべての対局を打ち切る予定。さながら、オンラインの囲碁コングレスといった活況を呈している。

主催者のポドペラ7d。(写真:Adriana Tomsu)

▽欧州プロ・オンラインリーグ
欧州囲碁連盟(EGF)のプロが、リーグ戦方式で対局するオンライン大会が3月末から始まった。参加するのはイリヤ・シクシン3p、パヴォル・リジー2p、アルテム・カチャノフスキー2p、アリ・ジャバリン2p、アンドリー・クラヴェッツ1p、タンギー・ルカルヴェ1pの6人。マテウシュ・スルマ2pは、めでたく父親となったばかりで忙しいため参加を見合わせた。考慮時間は10分+1手30秒の秒読みという早碁。各組み合わせでは、お互い手番を入れ替え、黒番、白番と2局対局する。毎週対局が組まれ、Twitch(アマゾンのゲームストリーミングプラットフォーム)を通じた中継もなされる。

▽欧州・中国オンライン対抗戦

EGFと中国囲碁協会の協力で実現したチーム対抗戦。いわゆる農心杯システムの勝ち抜き戦である。お互いのチームは10人から構成され、欧州からはアリアーヌ・ウジエ4d、バンジャマン・ドレアン=ゲナイジア6d(フランス)、アントン・シェルニフ6d(ロシア)、クリスティアン・ポップ7d(ルーマニア)、ルカシュ・ポドペラ7d(チェコ)、アレクサンドル・ディナーシュタイン3p(ロシア)、アリ・ジャバリン2p(イスラエル)、スタニスワフ・フレイラック7d(ポーランド)、アルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、マテウシュ・スルマ2p(ポーランド)が参加する。中国側も、世界アマ優勝経験者である胡煜清7d、白宝祥7d、王琛7dなど強力なメンバーを揃えている。4月2日時点では、1勝1敗となっている。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年3月16日 ]

新型コロナウイルス感染拡大の影響、欧州囲碁界にも波及

新型コロナウイルスの感染拡大が、3月半ばに入り欧州囲碁界にも具体的な悪影響を及ぼし始めた。
欧州囲碁協会(EGF)は3月初頭、サイトを通じて、以下のような発表を行った。

  • ・3月12-14日にクロアチアで予定される欧州青少年選手権は、開催する。
  • ・今夏ウクライナの欧州囲碁コングレスの枠内で行われる欧州選手権も開催する。
  • ・また夏までのEGF関連行事もすべて予定通り開催する。

すなわちすべて予定通り開催、ということで、実際クロアチアでの欧州青少年選手権は、160人を超える参加者を集め盛大に開催された。こちらについては後日別記事で報告するが、イタリアなどリスクのある複数国の選手は、オンラインの囲碁サーバーを通じて大会に参加。不正行為防止のため、対局姿のビデオを主催者に送ることが義務付けられた。

しかし、スペイン、フランス、ドイツといった国を中心に感染者数が急速に増加し、非常事態宣言を発したり入国規制などを導入する国が続出する中で、EGFは数日で方針転換を余儀なくされた。14-15日にかけての週末には各地で大会中止・延期の決定が相次いだ。EGF関連の大会では、3月19-22日にオーストリア・ウィーンで予定されていた欧州プロ選手権、4月4-5日にセルビア・ニシュで予定されていた欧州ペア碁選手権、また4月11-13日にフランス・パリで予定されていたグランドスラム予選会が延期となった。このほか、ポーランド、スロバキア、スイス、フランス、ドイツなどでも相次いで大会中止・延期が発表されている。

フランスでは12日から14日にかけて、政府が一連の感染拡大防止策を発表し、学校、大学などの教育機関に加え、レストラン、カフェなど生活に必須ではないと見なされる施設が閉鎖されることとなった。これを受けて、仏最大の大会の一つであるパリ大会(4月11-13日)が中止を発表。またレストランやカフェに夜集まることの多い囲碁クラブも、集会場所を失うこととなった。

欧州囲碁協会のサイト。中止または延期になったイベントに横線が引かれ、痛々しい。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年3月2日 ]

ヴァレリー・シクシン氏が死去

ロシア囲碁界の長老、ヴァレリー・シクシン氏が2月18日に亡くなった。71歳だった。シクシン氏はスヴェトラナ・シクシナ3p、イリヤ・シクシン3pの父親。シクシン氏はエンジニアだった1970年代に職場で囲碁に出会った。その後1990年代に入り、囲碁指導に専念するために離職。二人の子供のほか、カザンにおいて、このほかにもアレクサンドル・ディナーシュタイン3pなど数々の強豪を育てた。

サンクトペテルブルクで中国総領事杯が開催

ロシアでは2月23日が「祖国防衛の日」の祝日となっている。今年はこの日が日曜日にあたったため、それに続く月曜日が振替休日となった。この連休を利用して、サンクトペテルブルクでは、第11回目となる中国総領事杯に加え、ペア碁選手権、女流選手権といった一連の大会が開かれた。メインとなる中国総領事杯には133人が参加した。ロシアは昨年以来、大規模な大会を国外の強豪にも開放するようになってきており、今回も金栄三8d、金成進8d(共にドイツ在住)、アルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、ルカシュ・ポドペラ7d(チェコ)などが参加した。

会場の様子。(写真:ミハイル・クリロフ、ロシア囲碁連盟、以下同)
金永三8dとカチャノフスキー2pの対局。

6回戦の結果、全勝のない混戦となり、金栄三8d、金成進8dとイリヤ・シクシン3pが1敗で並んだが、規定の結果優勝はベルリンで囲碁指導をしている金成進8dとなった。2位は金栄三8d、3位はシクシン3pだった。これにカチャノフスキー2p、アレクサンドル・ディナーシュタイン3p、ポドペラ7dが続いた。

中央が優勝した金成進8d。シクシン3pとの検討。この碁はシクシン3pが勝利。
ロシア女流選手権を制したブルダコヴァ6d。ライバルのコヴァレヴァ5d、若手のシャルネヴァ4dなどを抑えて優勝した。女流選手権の参加者は16人。
ペア碁選手権の様子。27ペアが参加して盛況だった。
ペア碁選手権に優勝したファズルジャノヴァ/ディナーシュタイン・ペア。

ルーマニアで冬季囲碁フェスティバルが開催

ルーマニア北部ヴァトラドルネイにおいて、2月中旬に冬季囲碁フェスティバルが開かれた。このフェスティバルは、同地出身のツァラヌ・カタリン5pが主導して数年来開いているもの。欧州若者向けの大会ツアーである「Seygo Tour」大会に加え、ペア碁大会、メイン大会であるVaDo Cupといった大会が開かれた。全部で100人を大きく超える参加者があった。

囲碁フェスティバルの横断幕。(写真:欧州囲碁連盟、以下同)
本大会ではウクライナの若手、フセヴォロド・オフシェンコ2d(11)が大活躍。Seygo Tour大会ではルーマニアのグリゴリウ6dを初戦で破って全勝優勝を収めたほか、VaDo Cupでもオーストリアのヴィクトール・リン6dを破って8位に食い込んだ。新スター誕生である。
ペア碁大会優勝のグリゴリウ6d(ルーマニア)/メダック2d(クロアチア)ペア。
VaDoカップ優勝の金栄三8d。

メイン大会のVado Cupでは、6回戦の結果ドイツ在住の金栄三8dが全勝優勝を収めた。2位はドミニク・ボヴィズ6d(ハンガリー)、3位はアルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、4位はコルネル・ブルゾ7d(ルーマニア)、5位はニコラ・ミティッチ7d(セルビア)だった。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年2月18日 ]

グルノーブル国際囲碁大会が開催

仏グルノーブルにおいて国際囲碁大会が2月1-2日にかけて開催された。グルノーブルは現在フランス国内で最も活力のあるクラブ。ベテランのドミニク・コルニュエジョルス会長およびグルノーブル在住で仏囲碁協会指導員を務める黄仁聖8dなどのイニシアチブにより、3年前から国際囲碁大会を開催している。

会場の様子。(写真:Olivier Dulac、以下同)

3度目となる今回の大会の参加者数は欧州各国から強豪が集まったほか、中国からの訪問団もあり157人と過去最高を記録した。特にトップグループの「エリー杯」には、中国棋院の呉天2pを含め、6d以上が13人参加した。

大会のトップグループ「エリー杯」のスポンサーである黄仁聖8dによるライブコメント。
エリー杯の決勝、呉天2pとシクシン3pとの対局。

決勝は呉2pとロシアのイリヤ・シクシン3pとの間で争われ、呉2pが中押し勝ちを収めて優勝した。3位には第1回、2回目の優勝者である呉治民8d、4位にはフランスのバンジャマン・ドレアン=ゲナイジア6dが入賞した。

日曜日に開催された子供向けの大会。
成績優秀者。左から呉2p、シクシン3p、呉8d、ドレアン=ゲナイジア6d、オスカル・ヴァスケス6d(5位)、アリ・ジャバリン2p(6位)、黄8d、金成進8d(8位)、コルニュエジョルス会長。
大会に先立って、一週間にわたる「囲碁スキー合宿」がグルノーブルから1時間ほどのスキー場で開かれた。
合宿における対局の様子。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年1月27日 ]

欧州グランプリファイナル、スルマ2pが優勝

欧州グランプリファイナル大会が1月16-19日にスウェーデンのレクサンドにおいて開催された。グランプリファイナル大会は、2019年に欧州グランプリを構成した15大会における成績優秀者16人が参加する大会である。まず4人ずつのリーグ戦で決勝ステージ進出者を決定。以降はノックアウト方式で優勝を争う。

予選リーグの結果は以下の通り。

Aグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 ニコラ・ミティッチ 7d セルビア 2-1
2 マテウシュ・スルマ 2p ポーランド 2-1
3 ルカシュ・ポドペラ 7d チェコ 2-1
4 ドミニク・ボビーズ 6d ハンガリー 0-3

2勝1敗で3者が並ぶ激戦となったAグループ。ニコラ・ミティッチ7dとスルマ2pが枠抜けした一方、ポドペラ7dが涙をのんだ。ミティッチ7dはスルマ2pを破った星が光る。

Bグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 イリヤ・シクシン 3p ロシア 3-0
2 バンジャマン・ドレアンゲナイジア 6d フランス 2-1
3 オスカル・ヴァスケス 6d スペイン 1-2
4 コルネル・ブルゾ 7d ルーマニア 0-3

シクシン3pが圧倒した。もう一人の枠抜けは、フランスのドレアンゲナイジア6d。最終戦でヴァスケス6dとの接戦を制した。

Cグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 アンドリー・クラヴェッツ 1p ウクライナ 2-1
2 アルテム・カチャノフスキー 2p ウクライナ 2-1
3 アリ・ジャバリン 2p イスラエル 2-1
4 デュシャン・ミティッチ 7d セルビア 0-3

3人のプロが入ったCグループも激戦となった。2勝1敗で3人のプロが並んだが、クラヴェッツ、カチャノフスキーのウクライナ勢が枠抜けした。

Dグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 ダニエル・フー 5d 英国 2-1
2 スタニスワフ・フレイラック 7d ポーランド 2-1
3 パヴォル・リジー 2p スロヴァキア 1-2
4 タンギー・ルカルヴェ 1p フランス 1-2

最も番狂わせとなったのがDグループ。リジー、ルカルヴェの両プロが脱落し、先日ロンドン大会で優勝した新鋭のフー5dが1位、ポーランドのフレイラック7dが2位通過した。

決勝トーナメント1回戦では、フレイラック7dが激しい戦いの末に昨年の覇者シクシン3pに半目勝ちを収めた。また、今大会の台風の目となったフー5dはドレアンゲナイジア6dを破った。準決勝ではスルマ、フレイラックのポーランド2強が対決、こちらはスルマ2pが貫禄を見せ、フー5dを止めたカチャノフスキー2pとの決勝に臨んだ。

フレイラック7d(右)はシクシン3pを破った。(写真:欧州囲碁連盟)
スルマ2p(左)対カチャノフスキー2pによる決勝の様子

決勝は、スルマ2pが序盤から優勢に打ち進め、中押勝を収めた。「予選ステージ第1局目で(ミティッチ7dに)負けたときはもうだめかと思ったが、尻上がりに調子が良くなった。決勝はプレッシャーなく打てた」と語った。

決勝トーナメントの結果は以下の通り。

ニコラ・ミティッチ カチャノフスキー カチャノフスキー スルマ
カチャノフスキー
ドレアンゲナイジア フー
フー
スルマ スルマ スルマ
クラヴェッツ
シクシン フレイラック
フレイラック
検討の様子。左からシクシン3p、クラヴェッツ1p、フー5d、ヴァスケス6d。

[ 記事:野口基樹 ]

バックナンバー