ヨーロッパ囲碁ニュース

ヨーロッパの囲碁ニュース・棋戦情報をお伝えします。

囲碁ニュース [ 2020年9月14日 ]

フランス・ペア碁選手権が開催

9月12-13日にかけて、フランス・ペア碁選手権がストラスブールにおいて開催された。仏国内で新型コロナウイルスの新規感染者が増加する中、ストラスブールを含め大都市を中心とした各地方が感染拡大の度合いが高いとされる「レッドゾーン」に指定される中、なんとか開催にこぎつけた。

選手権には各地から約10ペアが参加した。フランスで対面式の本格的な大会が開かれるのは今年2月以来実に約7ヶ月ぶりで、それだけに皆も手談を交わすのを心待ちにしていたのだろう。

決勝の様子。対局中のマスク着用などの措置を採った上での開催となった。

4回戦の結果、優勝はジュリー・アルティニー4kとバンジャマン・パパゾグルー5dペアが初優勝を果たした。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年8月31日 ]

フランス、パンダネット杯欧州チーム選手権連覇

8月29-30日にかけて、パンダネット杯欧州チーム選手権決勝ラウンドがパンダネット上で開催された。決勝ラウンドは例年欧州囲碁コングレス開催式前日に開かれるが、今年はコングレスも中止になり、対面式のラウンド開催は不可能と判断されたため、オンラインでの開催となった。

予選大会は昨年10月から今年5月に開かれた。決勝ラウンド参加4チームのうち、フランス(昨年優勝)、ロシア(準優勝)、ウクライナ(3位)の3チームは昨年に続く枠抜け。4番目のチームは、ルーマニアが落ち、チェコが入った。ちなみに、フランス、ロシア、ウクライナは一昨年も枠抜けを果たしており、抜群の安定感を見せている。

不正を防ぐため、対局の様子がビデオで中継された。
こちらはフランスチーム1-3将の様子。
4将のドレアン=ゲナイジア6dはブダペストから別参加。
ロシアチーム。友人宅のフランスと、会議室のロシア。
集まる場所にも国の性格が出ているようで面白い。

総当たり戦の結果は、フランス(戴俊夫8d、タンギー・ルカルヴェ1p、トマ・ドゥバール7d、バンジャマン・ドレアン=ゲナイジア6d)が3連勝で、連覇を果たした。フランスの優勝はこれが3回目となる。2位はロシア、3位はチェコ、4位はウクライナだった。

フランスは主将の戴8dも勿論ながら、2-4将の厚さがチームを支えている。ルカルヴェ1p、ドゥバール7d、ドレアン=ゲナイジア6dの3人は共に20代半ばで、いわばフランスの「黄金世代」。これからこの勢いがどこまで続くか、またどこまで若手が食い込んでいけるかが注目される。

また今回は敗れたものの、ロシアは1、2将にイリヤ・シクシン3p、アレクサンドル・ディナーシュタイン3pのプロを、また3、4将にアントン・チェルニフ6d、ヴィアチェスラフ・カイミン6dという10代の若手を配したバランスのよいチーム構成。下の二人が更に強くなると、再び常勝軍団の復活となるだろう。

欧州プロ・オンライン選手権、第2回大会はカナダのリー1pが優勝

欧州プロ・オンライン選手権第2回大会が6月末から8月末にかけて開催された。前回お伝えしたように、今回はカナダからライアン・リー1pが参加した。

リーグ6回戦の結果は、そのリー1pが全勝優勝を果たした。大会はお互いが黒、白番を打ち、1-1の場合は握り直して3局目の結果で勝者を決定する、というシステム。リー1pは14局を打ち、パヴォル・リジー2pとアリ・ジャバリン2pに黒番を1局ずつ落としたのみの圧倒的な成績だった。2位はリジー2p、3位はイリヤ・シクシン3pだった。

囲碁イベントへの新型コロナウイルス禍の影響続く

欧州では5月頃から徐々に外出制限が解除されたが、休暇が始まって人の移動が多くなると共に新規感染者も増加しており、これが囲碁イベントに再び影響を与えている。

ドイツにおいては6月中に幾つか20人弱程度の人数を集めた対面式の大会が開かれた。また、フランスやハンガリーなどの国においては、7-8月にかけて幾つか囲碁合宿のようなイベントも開催された。しかし、8月にパリで開かれた合宿では、参加者が合宿中に外部の陽性者と接触したことが判明、最終日が中止されるなどの混乱が発生。これがきっかけとなって、月末にグルノーブルで予定されていたフランス・オープン選手権は中止となり、10月末に延期された。開催された場合、ほぼ半年ぶりの本格的な大会となるはずだった。フランスに関して言うと、今秋に予定される大会については、開催を維持するもの、中止するものに二分されている。先の見えない状況がしばらく続きそうだ。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年7月13日 ]

欧州プロ・オンライン選手権、第2回大会が開催

新型コロナ禍で対面式の大会がほぼすべてキャンセルとなる中、3-5月にかけて欧州囲碁連盟のプロ6人を集めたオンライン選手権が開催された。こちらはアルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)の優勝に終わった(以下、2位イリヤ・シクシン3p、3位パヴォル・リジー2p、4位アンドリー・クラヴェッツ1p、5位アリ・ジャバリン2p、6位タンギー・ルカルヴェ1p)。

第1回大会が終わって一月、6月終わりには第2回大会が始まった。今回は、前回のメンバーに加え、カナダのライアン・リー1pが参戦した。リー1pは、2017年に世界大会で世界的な強豪である陳耀燁(チェン・ヤオエ)9pを破り名を上げた。また前回と違い、上位3人に500、200、100ユーロの賞金が欧州囲碁連盟より付与される。

緒戦は、リジー2pとリー1pの対決。リー1pが2-1で勝利を収めた。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年6月16日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(6)出世街道を外れた外交官、囲碁のルールを紹介

18世紀後半から19世紀前半の欧州というと、多くの優れた啓蒙思想家の登場、フランス革命をはじめとする多くの革命の発生、産業革命による社会の変質など近代を形作る多くの出来事が発生した激動の時代という印象が強いが、その反面、欧州への囲碁の移入に関してはあまり動きのない時代であったようだ。以前、19世紀初頭にフランスで発表されたジャン=フェリシッシム・アドリーの著作を少しだけ紹介したが、これも囲碁に関しては17世紀末のトーマス・ハイドの引用であり、しかもまだ対局中に石を移動できる、と誤った説明をしている。こうした状況にようやく変化が訪れるのは1870年代も後半になってのことで、囲碁のルールをほぼ正確な形で紹介する文書が立て続けに現れるのである。

その嚆矢となったのが、ハーバート=アレン・ジャイルズ(1845-1935)という英国人の外交官・中国学者が1877年に発表した『Wei-ch'i, or the Chinese game of war(囲棋、もしくは中国の戦争ゲーム)』という英語の記事で、1882年には『Historic China』というジャイルズによる様々な記事をまとめた著作の一部としても出版されている。

ハーバート=アレン・ジャイルズ。

これより先に囲碁を積極的に紹介しようとしたトーマス・ハイドやライプニッツ同様、ジャイルズも専門の道では超一流というべき業績を残している。ジャイルズはよく言えば気骨がある、悪く言えば癖の強い人物であったのか、英国の名門の高校を出ながら大学にはいかず、1867年には20歳そこそこで清の都、北京に渡り、難関である中国語通訳の研修生となる試験に合格。通訳並びに外交官としての道を歩みだすことになる。性格が外交的でなく、批判精神に溢れていたため、華々しい出世はしなかったというが、1867年から92年にかけて天津、汕頭、厦門、上海、台湾の淡水など中国各地の領事館に勤務。出世街道から外れた一方、おかげで余った時間を存分に中国の研究に宛てて、様々な記事、論文、著作を発表し、評判を得た。その研究範囲は言語だけでなく、文学、絵画、文化、風俗、宗教など幅広い。また著作の題名を見ると、『中英辞典(1892)』『中国文学史(1901)』のように純粋に学術的なものがあると思えば、『先生なしで習う中国語(1872)』や『中国工房からの怪奇譚(1880)』のように明らかに読者受けを狙ってつけられたものが散見されるのも、学者というだけにとどまらないスケールを感じさせて面白い。欧州における中国学は、19世紀頭にフランスで本格的に学問として成立し、英国やドイツ、ロシアといった国々がこれを追う形で発展していったようだが、ジャイルズもその波に乗った、ということなのだろう。

ジャイルズは1892年、体調を崩して英国に帰国するが、1897年にはそれまでの業績が認められて、ケンブリッジ大学の中国学の教授に任命された。現在、中国語をアルファベットで表す場合には拼音(ピンイン)が用いられるが、それ以前に用いられていたのが、「ウェード・ジャイルズ式」と呼ばれる方式であった。トーマス・ウェード(1818-1895)は、1888年にケンブリッジ大学初の中国学教授に就任した人物で、ジャイルズの中国時代の上司でもあったという。ジャイルズは、ウェードが作り上げた表記方式を自らの『中英辞書』において発展させて用いたので、この名がある。

さて、ジャイルズの囲碁の紹介は23ページにも及ぶので、ポイントをかいつまんで見てみることにしよう。以下の文章が発表された『テンプル・バー』は正式名を『テンプル・バー 街と郊外の読者向けのロンドンの雑誌』と言い、19世紀末から20世紀初めにかけて刊行され人気を誇った月刊文学雑誌だった。ジャイルズがこの記事を発表した6年後の1883年には、『シャーロック・ホームズ』シリーズで有名になる以前のアーサー=コナン・ドイル(1859-1930)も同誌に短編小説を掲載しているそうだ。

トーマス・ウェード。1842-83年にかけて中国に駐在、外交官としてアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱などを経験した。

「必ずどちらかは巨大な眼鏡をかけた中国の紳士二人が、繊細な漆塗りを施した盤にかぶさるように座り、お互いに煙管をくゆらし、中国でしか知られていない、芳しい茶を飲みながら、その盤上で、美しい雲南の大理石でできた黒と白の小石を並べ交わしている。もし読者がこんな場面にでくわしたら、それが中国では珍しくない囲棋(Wei-ch'i)の光景だ。」
ジャイルズはまずこのような理想郷を描いて見せた後、
「ただ教養人だけが囲碁を嗜む。この難解な遊戯についての知識を有すると、中国においては普通以上の人物だと見なされるのだ」
と強調。そして語るに、
「初心者にとっては、そのルールを学ぶことすらが、長きに渡って絶望的に見え、続いてルールを用いてプレーをすることはさらにより絶望的に見える。忍耐力のある者のみが毎日練習を続け、そうするとある日、まったく突如として、囲碁の偉大な全体像が、その完全さ、美しさと共に彼らの前に現れるのだ」。
これは今でも多くの囲碁経験者が多かれ少なかれ感じることだと思うし、そしてこうした感想は経験者でなければ書けないものだろう。ジャイルズは中国の知識人達との会話を通じて、彼らが囲碁の素晴らしさを大いに称賛すると同時に、「外国人には難しすぎる」と言い放つ場面に何度も遭遇した。しかしこれが逆にジャイルズの好奇心に火を付けたのか、この記事が発表される前年の1876年春頃に囲碁を学ぶことを決心したのだという。

ジャイルズは記事の中で、囲碁の歴史や逸話(記事内では、囲碁が堯帝によって創られたという有名な伝説や、孟子や孔子の言葉を引用したり、蘇東坡にまつわる逸話などを紹介している)から始め、続いて盤石や作法について、そしてルール、打ち方のコツ(「上手は、コウを絶望的な状況を打開するために用いる」、「2線上でアタリになった石は救いようがない」、「黒がある場所で白石を取りそうになったとして、白は碁盤の別の場所から戦いを起こし、戦いをそちらの方向に向かわせつつ、最終的に当初危険だった石を助ける、といったことが可能だ」、となかなかハイレベルなことも記されている)、石の死活、整地などについて説明している。なかなか充実した内容であり、紹介の仕方そのものも、トーマス・ハイドやライプニッツに比べるとぐっと現代に近づいた印象である。

ジャイルズは、ゲームの目的について、「囲いながら、361個の交点のうちより多くを得ること」と明快に記している。説明されているルールは中国ルールであり、(日本のように地だけではなく)石も数える、片方の色を数えるだけでよい、と記されている。さらに現在は消滅してしまった「切り賃」のルールが説明されているのも面白いところである。

ジャイルズの囲碁についての理解度の水準を示す、と個人的に思うのが、記事内に挿入された図である。

1の基本的な石取りから始まって、目の説明、辺、隅と中央の性格の違い、二つ目を持って生きる形、さらにはコウ(8)までが網羅されている。以前、17世紀末のハイドが掲載した図を紹介したが、それとは比較にならない進歩がある。これは、確かに囲碁を理解し、消化した上で、どうやって教えるべきかを多少なりとも考えた人の図だ、と思う。

またジャイルズは「初心者は、フルサイズの19路盤は難しいので、11路盤から始めるべきだ」と薦めている。今でこそ、9路盤や13路盤が普及したけれど、私が囲碁を覚えた1980年代ですらいきなり19路盤から始めるのが普通で、ジャイルズが言うように「忍耐力のある者のみ」が生き残るという時代だった。当時の中国にこうした指導法があったのかもしれないが、それを敢えて紹介したのはなかなかに先進的ではないだろうか。

記事に挿入されている唯一の図。

一方で、欧州初となるルール説明であるだけに、苦労も垣間見える。特にそれが感じられるのが用語の訳である。石は果物の種を意味する「pip」(現在はそのままstoneを用いる)、交点の意味での目は「cross」(現在はintersectionやpointを用いる)、コウは「stealing」(現在はko)、セキは「truce(「停戦」の意、現在はseki)」といった具合だ。

そして、勿論物足りない点も少なくない。なにより、図が一つしか入っておらず、コウやセキ、整地のような難しい点が全て文章で説明されていること。一応、囲碁を打つにあたって必要な基本は網羅されているけれど、この説明だけを読んで実際に囲碁を楽しめる人がいるとは考えがたい。ジャイルズ自身もそれは意識しているのだろう、こうした技術的な説明を終えた後で、
「さて今や我々は、囲碁のまばゆい光が自らの理解の中に広がっていくことを今か今かと待ち望みながらこのやや骨の折れる描写を注意深く読んできた、さぞかし疲労困憊したであろう実験精神旺盛な読者が、この困難な遊戯を学ぶにあたっての苦労を前に抗議の声を上げる姿を心に浮かべるものである」
とブラックユーモア(?)たっぷりに加えている。その上で、
「中国人のように創意工夫に満ち、知的に繊細な物事に喜びを見出す民族が、価値のない遊戯に対して何世紀もの間敬意を払ってきたわけがない」
と述べ、囲碁を西洋のチェスにも匹敵する素晴らしいゲームだ、とまとめている。

さて、ジャイルズは記事の初めの方で、欧州人が囲碁を学ぶにあたっての困難の根源にあるのが、囲碁そのものの難しさというよりも、むしろコミュニケーション不全の問題であることを指摘している。つまり、囲碁に興味を持つ欧州人と、囲碁を知る中国の知識人がお互いの言語を話すことができず、根気のいる話し合いができる状態にないため、囲碁を学べない。問題は学ぶ側だけでなく、教える側にもあると言う。ジャイルズが囲碁を学び、当時としては非常に充実した説明をすることができたのは、その才能と好奇心もさることながら、彼自身が高い教養と中国語の能力を持ち合わせて、囲碁の知識を独占していた中国知識人の中に飛び込んでいけたからだったのだろうし、それは我々が考える以上に勇気のある行動だったのではないだろうか。そしてまた、ここに示唆されている囲碁に包含された社会学的・言語学的な困難は、未だに完全に克服されているとは言えないように思う。

閑話休題。ジャイルズは実際のところどれほど囲碁を打ち、どれほどの棋力だったのだろうか。正確なところは分からないのだが、イタリアのゲーム史家でこれまでも何度か引用してきたフランコ・プラテシ氏が非常に面白い逸話を紹介している。

プラテシ氏は、米国クリーブランド公立図書館に所蔵されている、ジョン=グリスウォルド・ホワイト(1845-1928)というジャイルズと同世代の弁護士・チェス愛好家のコレクションの中に、ジャイルズの囲碁に関する原稿が残されていることを発見した。これは恐らく、上に紹介した記事の草稿であったものと推定される。プラテシ氏が閲覧したところ、その手稿は51ページに上り、その中には石のつなぎ方、布石、定石、コウ、攻め合い、死活、シチョウ、ヨセといったシチュエーションがテーマ別にまとめられ、複数の手書きの図解入りで説明されているという。ジャイルズは当初、こうした技術的な紹介をする記事を続きとして構想していたのかもしれない。雑誌や新聞などに記事を掲載する場合、当然ながら紙面の都合があり、どうしても入れたいもの全ては入れられない妥協の産物になってしまうものだ。ジャイルズの場合も、ロンドンと郊外の文芸愛好者の期待に応えるべく、様々な制限と戦いながら記事を作成したはずである。読者に届いた版の後ろには、情報の収集、分析、整理に費やされた見えない、真摯で膨大な作業がある。

ちなみに、現在のジャイルズの中国学者としての評価は高いとは言えないようで、Wikipediaを見ても、「アマチュア的」「不正確」といった評が載っている。実際そうなのかもしれないし、囲碁の説明についても、現代の目から見ると同様の批判ができるのかもしれない。だが、欧州における中国学がそこまで発達していない時代に、非常に多様なテーマを研究した人物が、囲碁にも目を向けて、これだけのエネルギーを割いたことは評価されてもよいのではないだろうか。

ジャイルズはこの記事の後、著作などで囲碁について言及することはわずかしかなかったようだが、プラテシ氏によると、晩年の1929年になって興味深い文章を残している。この年にロンドンで、中国人のシュウ・チージという人物とイタリア人のダニエレ・ペコリーニ=マンツォーニ(1872-1936)という人物とが共著した『The Game of Wei-Chi』という本が出版されるのだが、この本は約50年前のジャイルズの記事を再掲するだけでなく、ジャイルズ自身が序文を執筆しており、以下のように述べているそうだ。 「囲碁の本が出版されると聞いて、とても関心を寄せています。私自身、もう随分前のことですが、英国に囲碁を紹介した先駆者となったからです。囲碁を娯楽として学び、プレーするのは簡単なことで、私も子どもたちが小さな頃に囲碁を教えました。しかし、上手になるのには、何年もかかるのです」。
(続く)

(本記事作成にあたっては、以下のページを主に参照した:https://www.ourcivilisation.com/smartboard/shop/gilesha/about.htm
https://www.britannica.com/biography/H-A-Giles
http://jerome.hubert.pagesperso-orange.fr/Go/Text/Giles/wei-chi-Giles.htm
http://naibi.net/d/21.pdf

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年6月2日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(5)沈黙の18世紀

リッチ=トリゴー著による『中国キリスト教布教史』が1615年に出版されて、囲碁というゲームが欧州に知らしめられた後、その囲碁の描写が17世紀を通じて様々な本で引用された。そして、17世紀末から18世紀頭にかけて、トーマス・ハイドの『De Ludis Orientalibus』(1694年)、ライプニッツの『Annotatio de quibusdam Ludis』(1710年)という知の巨人二人による著作が現れ、完全ではないながらも、個性的な形で囲碁を改めて紹介した。この流れからすると、18世紀は欧州において囲碁についての情報量がさらに増えた…と続きそうなものだが、残念ながらそうはならなかった。

ライプニッツ以降、18世紀に欧州において囲碁を紹介した資料というのはほとんど見当たらないようだ。勿論、今後新たな資料が発見される可能性はあるけれど、この時代に欧州の囲碁普及にとって革命的な出来事が発生しなかったことは間違いない。日本はすでに鎖国体制下にあり、中国も次第に国を閉じる方向に向かっていて、得られる情報が限られていたのかもしれないし、単に関心を持つ人がいなかった、というだけなのかもしれない。これについては様々な歴史的要因があるのだろうと思う。

勿論、多少なりとも東西の交流が保たれていた以上は何もなかった、というわけではなく、例えば、マリー・アントワネット(1755-1793)が母マリア・テレジア(1717-1780)から引き継ぎ、自らも発展させたという日本の漆器コレクションの中には、碁盤の上に中国の童子が寝そべった図柄の小箱があり(フランスの美術館におけるコレクションを集めたRMNのサイトから閲覧できる)、今でもヴェルサイユ宮殿に保存されているそうだ。こうした現象は、17世紀後半から18世紀にかけて東洋の陶磁器などの美術工芸品が輸出され、ロココ様式と一体となったいわゆる「シノワズリ(中国趣味。今でもこの時代の城館を訪れると、ロココ-中国風の装飾を施した部屋に出くわすこともしばしばである)」を生み出した、というような流れの中に位置づけることができるだろう。ほかにも、琴棋書画図や、江戸時代の風俗画のように囲碁を打つ人々の図像をまじえた屏風や陶磁器が輸出された、ということはあったかもしれない。しかし、こうした美術工芸品を見てマリア・テレジアやマリー・アントワネット自身が囲碁に関心を持った、とは残念ながら聞いたことがない。

ようやく18世紀の末に、アンドレアス=エヴェラルドゥス・ファン=ブラーム=ホックヘースト(1739-1801)という人物が、『オランダ東インド会社大使による、1794、1795年の中国皇帝拝謁の旅』という著作の中で、囲碁について言及しているそうだ(以下については、この本を探してわざわざフランス国立図書館に赴いたというジェローム・ユベール氏のページ http://jerome.hubert.pagesperso-orange.fr/Go/Histoire/Braam/VanBraam.htm、および以下のページ https://www.jstor.org/stable/26402838?seq=3#metadata_info_tab_contents を主に参照した。アムステルダム国立美術館に保存されている、アンドレアス=エヴェラルドゥス・ファン=ブラーム=ホックヘーストと見られる彩色木像はこちら)。

ファン=ブラーム=ホックへーストはオランダ出身だが、この本は米国フィラデルフィアで1797-1798年にかけてフランス語で出版された。2巻からなり、囲碁は第2巻の最後に現れる。

「この著作を締めくくるにあたって、中国の人々が嗜む様々なゲームについて簡単に触れたいと思う。まず初めのゲームはその中でも最も洗練されたものであり、ウェイキ(Ouay-Ki)という。これは一種の戦争ゲームであり、その目的は、国を包囲し、征服することである。プレーにあたっては、彩色された枠が交差する紙製の盤の上に、丸く平たい小石を置く。石には2色があり、通常は黒と白で、その数はそれぞれ180個である。

このゲームはあまりにも難しいので、聞いたところでは、可能な限り完璧に打ちこなした人はかつて誰も存在しなかったという。そのルール説明はあまりに長く、晦渋になるであろう。私自身は、このゲームのルールを記した中国の版本を保有しているが、こうした本の中に非常に明確に打ち方が解説されている。このゲームはチェスよりもより多くの技法と注意力を必要とする。知識人や政治家が好むゲームである。」

一見すると、ハイドや、ライプニッツが真っ向から囲碁に挑んだのに比べて、具体的な説明を避けた消極的な態度が目につく。しかしよく見ると、興味深い点も多い。ファン=ブラーム=ホックヘーストは、囲碁の次に象棋を紹介、同様の長さの説明を加えているが、そのほかのカードゲームなどについては非常に短い紹介にとどめている。「中国で最も洗練された」と形容するだけあって、囲碁に特別な地位を認めていることが理解できる。また「あまりにも晦渋なゲーム」だ、という中国での生の声を挿入しているのも面白い。そしてあまりに難しい、という割には、ファン=ブラーム=ホックヘースト自身は囲碁に関する本を保有している、とわざわざ明かしているあたり、実は相当囲碁に興味があったのではなかろうか、と思わせる。それを一部証明するかのように、ファン=ブラーム=ホックヘーストは囲碁用具一式を保有していたのだという。これについては後に触れる。いずれにせよ、ファン=ブラーム=ホックヘーストの目的は、「読者の知らない難しいゲームを私は実際に目にした。またその本ももっていて、実はルールも知っているのだ」と高らかに宣言することだったのだろう。

ファン=ブラーム=ホックヘーストとはどういう人物だったのだろうか。『オランダ東インド会社大使による、1794、1795年の中国皇帝拝謁の旅』という本を、米国においてフランス語で出版する…というだけあって、その人生は波乱に富んだものだったようだ。生まれはオランダのユトレヒト州。士官候補生としてオランダ海軍に加わった後、オランダ東インド会社に就職、1758年にはその関係で中国に向かい、広東とマカオを中心に1773年まで過ごす。その後も、中国はファン=ブラーム=ホックヘーストの人生にとって重要な位置を占めることになる。

1774年にオランダに帰国したファン=ブラーム=ホックヘーストだったが、米国の独立戦争(1775-1783)に大きな感銘を受け、独立戦争が終わった年にはチャールストン(現サウスカロライナ州)に移住、中国における経験を活かした米のプランテーション経営や商業に乗り出し、米国国籍も取得した。しかし、伝染病で子供4人を亡くすという悲劇に見舞われ、経済的にも苦境に陥ったことから、兄の勧めもあって再び中国へ旅立つことを決める。1788年に米国を離れたファン=ブラーム=ホックヘーストは、オランダ、マラッカ、バタヴィア(ジャカルタ)を経て1790年に広東に到着、オランダ東インド会社の商館長のポストに就く。

19世紀初頭の、広東の外国人居留区域(ファクトリー)。オランダだけでなく、イギリス、スウェーデンなどの商館が並んでいた。清にとって長崎・出島に相当する場所だった。

さて当時の清は、最大版図を築いた乾隆帝(1711-1799、在位1735-1796)の晩年にあたる。先に述べたように、清は先代の雍正帝が宣教師を追放。乾隆帝も貿易の制限を強めて、貿易港は広東に限るなどほぼ鎖国に近い体制を布いた。これに対して英国は貿易機会を求め、公には乾隆帝の80歳を祝う使節団として外交官マカートニーを1793年に派遣する。マカートニーは乾隆帝の謁見には成功したものの、貿易拡大の要求は受け容れられなかった。

マカートニーによる乾隆帝の謁見の様子。この際に三跪九叩頭の礼が問題になったことも有名である。マカートニーはこの礼が屈辱的として拒否。清側はこの点では妥協し、西洋式の礼を認めたが、これが英国側の要求拒否の一因となったのだ、と一般には言われている。

当時、貿易上で英蘭両国はライバル的立場にあった。ファン=ブラーム=ホックヘーストはマカートニーの失敗を見て、英国を出し抜くチャンスを狙っていたが、乾隆帝在位60周年式典の機会に同様の使節団を派遣することを東インド会社に提案する。この使節団長を務めたのが、イサーク・ティチング(1745-1812)。1779-1783年にかけて、長崎・出島のオランダ商館長を務め、日本の社会、自然、風俗などについての書物を残した人物でもある。ファン=ブラーム=ホックヘースト自身も副団長として使節団に加わった。

使節団は数々の献上品と共に1794年11月に広東を出発、約1ヶ月半の厳しい冬の旅を経て、式典の行われる春節にあわせて翌年1月頭に北京に到着。帝都で40日を過ごすことになった。彼らはマカートニーが拒否した三跪九叩頭の礼も厭わなかった。中でも、ファン=ブラーム=ホックヘーストが礼をした際にはその帽子がこぼれ落ち、乾隆帝が相好を崩された、という。使節団は、紫禁城や円明園への入城・入園を許されるという特別な待遇を受けた。欧州の使節団が宮殿に迎えられることは、その後19世紀半ばにアヘン戦争やアロー戦争などを経て清が弱体化するまでなかったという。使節団は2月半ばに帰途につき、2ヶ月半をかけて5月に広東に戻った。特に貿易上の特権を許された、というようなことはないようだが、数々の下賜品なども得、何よりも英国使節団よりも歓待されて、ミッションは大成功を収めた。

この旅の間、ファン=ブラーム=ホックヘーストは目の当たりにした風景や、皇帝との謁見の様子、社会の様子などをオランダ語で詳細に記録。これが『オランダ東インド会社大使による、1794、1795年の中国皇帝拝謁の旅』の元となった。今でもオランダの人々の外国語習得能力にはよく驚かされるが、ファン=ブラーム=ホックヘーストも、母語のオランダ語、英語に加え、フランス語、ポルトガル語を話し、広東の中国語も解したという。それだけに、現地の人々からの情報をも得ることができたのは、囲碁の紹介からも垣間見えることだ。またファン=ブラーム=ホックヘーストはこの著作を充実させる目的で、当時貴重だった地図を取得したり、広東の中国人画家に挿絵を注文したりした。当時、中国の記録はイエズス会士によるものがほとんどであっただけに、非常に貴重な資料となった。

ファン=ブラーム=ホックヘーストの著作に現れる、オランダ使節団による乾隆帝謁見の様子。左側に座っているのが、ティチングとファン=ブラーム=ホックヘースト。

歴史的ミッションの成功とは裏腹に、欧州の情勢がファン=ブラーム=ホックヘーストの人生を再び混沌へと投げ入れる。ちょうど使節団が旅をしていたころ、祖国オランダ共和国は大革命を経たフランスに制圧され、崩壊。1795年初めには、フランスの衛星国としてバタヴィア共和国が建国された。そのため東アジアの情勢も不穏なものとなり(ファン=ブラーム=ホックヘースト自身の説明によると、オランダがフランスの支配下に入ってしまったため、英国からの攻撃を受ける恐れが発生したのだという)、ファン=ブラーム=ホックヘーストは、米国に帰国することを決め、同年の末にフィラデルフィアに向けて旅立った。その荷物の中には、中国の滞在中に収集した数々の美術工芸品や、乾隆帝から拝領した品が含まれていた。

ファン=ブラーム=ホックヘーストはケープタウンを経て、翌年春にフィラデルフィアに到着。そこで、フランスの大物政治家タレーラン(1754-1838)の紹介を通じて、メデリック=ルイ=エリー・モロー=ド=サンメリー(1750-1819)という亡命フランス人に出会う。

モロー=ド=サンメリーはカリブ海の仏領マルティニーク島に生まれた政治家・歴史家で、フランス革命においては主にカリブ海植民者の権益を代表する政治家として活躍したが、政争に巻き込まれて米国に亡命。ファン=ブラーム=ホックヘーストと出会った当時は、出版社兼書店を経営していた。モロー=ド=サンメリーはファン=ブラーム=ホックヘーストが中国から持ち帰った原稿に大きな関心を示し、フランス語に訳して出版することを承諾、こうして『オランダ東インド会社大使による、1794、1795年の中国皇帝拝謁の旅』が1797-1798年にかけて世に出ることになった。この著作は初代大統領ジョージ・ワシントン(1732-1799、大統領任期1789-1797)に献呈された。ファン=ブラーム=ホックヘーストは元々ワシントン夫妻を知っていたようで、中国から引き上げる際の荷物には、ファーストレディのマーサ・ワシントンに贈るためのMWのイニシャル入り景徳鎮製茶器が含まれていたそうだ。

モロー=ド=サンメリー。

さて、『オランダ東インド会社大使による、1794、1795年の中国皇帝拝謁の旅』は詳細な内容、多くの挿絵、モロー=ド=サンメリーによる素晴らしい編集もあって珍重され、パリでは直後に海賊版が出版され、それが英語、ドイツ語、オランダ語に訳されて出回るほどだったという。

ファン=ブラーム=ホックヘーストは、フィラデルフィア近郊のブリストルに農場を購入して家を建て、それを「中国の隠棲所」と名付けて、中国から持ち込んだ品々を飾り(米国では初めて本格的な中国美術工芸品のコレクションが展示された場所であったという)、友人を招いては中国での体験談を語った。この場所で余生を静かに暮らすのが、ファン=ブラーム=ホックヘーストの人生計画であった…はずである。

19世紀初めのロンドン・クリスティーズでの競売の様子。クリスティーズは1766年に設立された。

ところが、これまでがそうであったように、ファン=ブラーム=ホックヘーストに安住の地は訪れなかった。詳細は不明であるが、何らかの経済的な問題が発生。ファン=ブラーム=ホックヘーストは早くも1798年に自宅を売却し、欧州に旅立つことを余儀なくされる。ファン=ブラーム=ホックヘーストは絵画や工芸品を中心とする中国コレクションをタレーランを通じてフランス政府に譲渡することを打診するが、政府はこれに関心を持たず、結局これらの品々は1799年2月15-16日にかけて、ロンドンのオークションハウス・クリスティーズで競売にかけられることになった。

そしてそのカタログの中に、以下のような項目があるという。
「Whey Kyというゲームの教則本、さらにはそのゲーム用の盤(scheme of the board)と、人が描かれた2つの椀」。
これを誰が購入したかは定かではない。もしかしたら、今でも、欧州のいずこかの美術館の保管庫の片隅に埋もれているのかもしれない。

ファン=ブラーム=ホックヘーストは最終的に故郷のオランダに戻り、アムステルダムで1801年に亡くなった。

囲碁が本格的に欧州に紹介されるには、さらに数十年待たなければならなかった。(続く)

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年5月14日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(4)欧州にたどり着いた中国人

ライプニッツと同時代に生きた英国人トーマス・ハイドは、日本では本因坊道策がまだ活躍していたような時代に、如何にして囲碁を発見できたのだろうか?前回紹介した、1694年出版の『De Ludis Orientalibus』に現れる囲碁の技術的な説明に先立って、ハイドは非常に驚くべき事実をいくつか明かしている。

なんとハイドは囲碁の用具一式を自ら保有している、という。それはインドのマドラス(現チェンナイ)のセント・ジョージ要塞総督を務めた英国東インド会社のウィリアム・ギフォードという人物からの贈り物だった。

事実だとすると、まず間違いなく欧州にたどり着いた初めての盤石であろう。マドラスは英国のインドにおける重要拠点の一つで、ギフォードは1680年代に総督を務めた。当時マドラスは綿製品の英国における人気や奴隷貿易の繁栄もあって非常に潤っており、世界中からあらゆる品々が集まる場所だったという。余談になるが、ギフォードと同時代にやはりマドラスで活躍し、総督を務めた人物にエリフ・イェール(1649-1721)がいる。英領だった時代の米国で生まれ、その関係で後に米イェール大学の創設に携わり、その名付け親となった人物である。イェールは墓碑に「アメリカ生まれ、欧州育ち、アフリカを旅してアジアにて結婚、長期にわたり滞在し財を成す。ロンドンで死去」と記されるほどグローバルな生き方をした人だった。こうした人に持ち運ばれて、地球を旅する碁盤や碁石もあったのであろうか。残念ながら、ギフォードがいかにして盤石を手に入れたか、またハイドが何時、いかなる状況下でギフォードから盤石を贈られたかは明らかではないが、恐らくギフォードが総督を務めていた1680年代の出来事なのだろう。

ハイドは、囲碁が「中国で高位の法官や行政官などに嗜まれるゲームであり、政治的・外交的な能力を向上させる効果があるので、サミュエル・パーチャス(1577?-1626、英国の聖職者で、色々な人々の旅行記を編纂した著作を残している)が言及しているように、このゲームに熟達した者は称賛の的となる」と説明する一方、「このゲームについてこれまで様々な本においてなされてきた紹介が不適切で、しかもお互いに矛盾するものだ」と過去の文献を批判、アルヴァロ・セメド(1585?-1658、中国で活動したポルトガル人イエズス会士)、トリゴー、以前紹介したオランダ東インド会社のヤン・ニーホフの文章をそれぞれ引用している。

サミュエル・パーチャスが1625年に出版し、リッチ=トリゴーの囲碁に関する説明を借用している『Hakluytus Posthumus, or Purchas his Pilgrimes』の表紙部分。パーチャス自身は「生まれ故郷であるエセックス州サクステッドの周囲200マイル以上遠くに出かけたことがなかった」と語るが、多くの資料に基づいて巨大な旅行記を編纂。ほかの著作の中では日本にも触れているという。
アルヴァロ・セメド。明末の中国で布教を行い、その著作『中華帝国誌』はスペイン語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語に訳され、広く読まれた。

実は、セメドおよびニーホフの文章は、どちらもリッチ=トリゴーの『中国キリスト教布教史』を元にしている(更に言えば、パーチャスもリッチ=トリゴーを元にしている)のであるが、ハイドはそれに気づいている様子はない。つまり、リッチ=トリゴーの原文の曖昧さが祟ったのか、もしくは後世の訳と解釈とがまずかったせいなのか、時間と共に意味がずれてしまい、すべての文章が「お互いに矛盾」するに至ってしまったのである。

「しかし、このゲームについて、より完全で正確な説明をすることができる」と、ここでハイドは誇らしげに宣言する。情報を提供してくれたのは、Shin Foçungという名の、「教養浅からぬ中国出身の人物」だという。

この「Shin Foçung」なる人物については、中国には何の記録もないが、ありがたいことに欧州側には本人がトーマス・ハイドと交わした書簡を含め沢山の資料が残っている。手紙に残る本人の署名によると、名は「沈福宗」と書く。記録にある限りでは、欧州に初めてたどり着いた中国人の一人である。

沈福宗。英国滞在中に、国王ジェームズ2世の注文で肖像画家ゴドフリー・ネラーが描いたリアリズムに満ちた肖像画。国王の寝室に隣接する部屋に飾られていたという。

沈福宗は1657年、南京に生まれた。父親はキリスト教に改宗した医師で、沈福宗もその信仰を引き継ぎ、若くしてラテン語の素養も身につけた。その才能に目をつけたのが、1659年以来中国で活動していたフランドル出身のイエズス会士フィリップ・クプレであった。クプレは1681年、ある任務のために欧州に戻ることになるが、この際に若き沈福宗を帯同する。そこには政治的な目的があったという。クプレの任務は2つあった。第1の任務は、ローマ法王に対して、ポルトガル王に与えられていた特権の廃止を求めるべく働きかけること。ポルトガル王は、中国で活動するイエズス会士を叙任する権限を法王から与えられていたが、実際に中国で布教活動するイエズス会士にとってみると、この特権が邪魔となって現地出身の司祭を活用することもできず、ひいては中国語を用いるなど現地文化に適応した布教もできない、という弊害があった。第2の任務は、科学的な専門性を身につけたイエズス会士の派遣をフランスなどのカトリック教国に要請することであった。この時代、クプレ同様フランドル出身のイエズス会士フェルディナント・フェルビースト(1623-1688)がその数学や天文学などの類まれなる才能で康煕帝の信頼を得ることに成功しており、フェルビースト自身がクプレに後継者の派遣を要請するよう依頼したのであった。さてこうした中で、中国古典の教養を持つとともに、完璧でないながらも流暢にラテン語を話したという才能あふれる沈福宗を通じて、クプレは中国にも布教能力のある人々がいる、ということを証明しようとした。またクプレは中国文化の偉大さを示すために、数多くの中国の文献や品々をも持ち込み、訪問国の君主への贈答品として捧げたのだった。

2年弱にわたる波乱万丈の航海の後、二人は1683年に欧州にたどり着く。翌年訪れたフランスではルイ14世の大歓迎を受けた。当時の記事によると、沈福宗は太陽王がヴェルサイユ宮殿において開いた晩餐会に龍の文様を施した華やかな中国服を纏って出席。中国語での祈祷を聞かせたほか、象牙製の箸を使ってみせ、王を大いに喜ばせたという。ルイ14世はクプレの要請を受け入れ、イエズス会士の派遣を約束した。一方で、続いて1685年に訪れたローマでは、法王インノケンティウス11世が中国人司祭の叙任や中国語での布教などに関するクプレの要請を拒否した。インノケンティウス11世はルイ14世と対立関係にあったといい、ポルトガルの勢力を削ってフランスを助長するような動きを嫌ったのかもしれない。このためクプレと沈福宗は、ほかの可能性を求めて欧州滞在を延長することになった。両者は、再びフランスを経て、1687年には英国に向かう。当時の英国王は、ジェームズ2世。王位には2年前に就位したばかりで、翌年には名誉革命で追われるという短命政権に終わった王である。ジェームズ2世は、国教会が支配的な英国にあって敢えてカトリックを信仰、これが革命の原因となるのだが、クプレはイエズス会士として、カトリック王の支援をあてにして英国訪問を決めたのだった。沈福宗はクプレに先立って、1687年3月にロンドンに到着する。クプレは同年、同僚のイエズス会士がラテン語に訳した『大学』『中庸』『論語』を『Confucius Sinarum Philosophus(中国の哲人、孔子)』として編纂しパリで出版、欧州全体で大きな反響を呼んだ。

クプレと沈福宗の欧州行脚は大きな話題を呼んでおり、オックスフォード大学ボドリアン図書館館長だったトーマス・ハイドも、フランスの友人との文通などを通じてこれを聞き及んでいた。特に沈福宗に興味を抱いたハイドは、1687年5月に本人にラテン語で手紙を出し、オックスフォードに招待する。2ヶ月来ロンドンに滞在していた沈福宗は快くこれに応じ、6-7月にかけての6週間をオックスフォードで過ごすことになる。ボドリアン図書館には17世紀初頭以来、東インド会社の人々などから寄贈された中国語の書籍が100冊あまり存在したが、当然ながら誰もその内容を理解できない状態だった。ハイドは、沈福宗にその目録作成を仕事として依頼し、高額の報酬を約束した。二人はラテン語を通じてコミュニケーションを取り、沈福宗はハイドに対して、中国の本についてどちらから読むかなどの基本から教えたという。一方で、好奇心旺盛なハイドは、博学で篤実な沈福宗を質問攻めにしたようだ。中国における言語について、数字、度量衡について、キリスト教に関する中国語の文書について、暦について…話題は尽きなかった。

『中国の哲人、孔子』の口絵。クプレは編纂に加え前文などを担当した。

ゲームもそうしたテーマの一つで、ハイドが沈福宗をオックスフォードに招待した手紙には、象棋の駒の上に書かれた漢字に関する質問が記されていた。『De Ludis Orientalibus』における象棋の説明はかなり正確だといい、二人は対局もした、という。その反面、前回見た囲碁の説明からすると、沈福宗は囲碁を中途半端にしか知らなかったのだろう。イタリアのゲーム史家であるプラテシ氏は、「沈福宗はせいぜい、目録作成をした中国文献の中にちょっとした囲碁の説明を見つけて、それをハイドに伝えた程度だったかもしれない」と推測する。ちなみに今でも、好奇心の強い欧州人に質問攻めにされたアジア人が、マスターしきれていない欧州の言語で必死に、誠実に答えようとして、しかし思ったような答えが返せずに悶々とする構図があるけれど(ピンとこない方は、遠藤周作の『留学』にこの典型的な描写があるので是非参照してほしい)、二人の手紙のやりとりを見ると、沈福宗はその初めての「殉教者」だったのだろうか、などと勝手な想像をしてしまう。

沈福宗がオックスフォードの滞在を終えてロンドンに戻った後も、ハイドとの文通はしばらく続く。相変わらずハイドが沈福宗を質問攻めにして、沈福宗は何とか「欧州のペンの持ち方をあまり知らないものですから」と苦しい言い訳をしつつ数週間に一度返答する、というスタイル。クプレと沈福宗は、1688年4月にロンドンを離れ、中国への帰還を目指してリスボンへと発つ。名誉革命によってジェームズ2世がフランスに亡命を余儀なくされる半年ほど前のことであった。政情不安で、英国に残る意味がなくなったのかもしれない。

リスボンでは中国への出発許可がなかなか下りず、二人共数年を当地で過ごすことになる。沈福宗はこの間、正式にイエズス会士となるための研鑽を積む。沈福宗は手紙の中で、ハイドに対して「リスボンから返事をする」と書いているのだが、その約束が守られることはなかった。再びプロテスタント国家に戻った英国との文通は、イエズス会士になることを目指す沈福宗にとって危険な行為になってしまったのだ。クプレは、そもそもの任務がイエズス会に対するポルトガルの影響力を削減することであったために、苦しい立場に置かれる。二人は数年後、ついに別々に出発許可を得て航海に乗り出すが、その最期は悲劇的だった。1691年に出発した沈福宗は、モザンビークにたどり着く直前で感染病により命を落とす。一方クプレも、その2年後に中国に旅立つことを許されるが、インドのゴアにたどり着く直前に、嵐の中で非業の死を遂げた。トーマス・ハイドは、沈福宗が英国を離れた後にたどった運命については知らなかったが、沈福宗から得られた貴重な情報を、『De Ludis Orientalibus』だけでなくほかの著作でも紹介しつつ、その名を引いて感謝を捧げている(以上については、主に以下のページを参照した:http://www.britishchineseheritagecentre.org.uk/insights/item/michael-alphonsus-shen-fu-tsung-fuzong-the-first-recorded-chinese-man-visiting-britain 、https://ora.ox.ac.uk/objects/uuid:6ce9489d-9858-4543-a31d-69b2962b05bahttps://www.bl.uk/eblj/2015articles/article9.html)。

『De Ludis Orientalibus』にあらわれる囲碁の紹介は、ハイドという好奇心の塊のような東洋の専門家と、イエズス会の政治的打算によって欧州に連れてこられた教養人の沈福宗といういわばグローバル化の申し子同士の出会いの産物であった。また二人の遭遇は、ジェームズ2世というカトリックの王がわずか3年間英国に君臨したおかげで可能となるなど、多くの偶然が重なったおかげなのだった。

さて、クプレと沈福宗の働きかけのおかげで、ルイ14世は1685年に、科学に精通するイエズス会士6人を中国に派遣する。その中には、ライプニッツと1697-1707年にかけて文通し、易経の存在を教えて2進法のインスピレーションを与えたというジョアシャン・ブーヴェ(1656-1730)もいた。ライプニッツがハイドの著作を直接読んだことがあるとは思えないが、ブーヴェのような人物から囲碁に関する情報を得ていたのかもしれないし、各国の東インド会社を経由した情報が耳に入ってきていたのかもしれない。

ハイドとライプニッツの時代、日本はすでに鎖国下にあったし、中国もその後まもなくして、雍正帝が1723年にキリスト教の布教を実質的に禁止、大半の宣教師はマカオや国外に追放され、国際交流に対して後ろ向きな社会となる。こうして、囲碁に関する欧州への情報伝達は途絶えてしまう。それもあって、ハイドの著作は、東洋のゲームに関する権威的存在として19世紀にいたるまで評価され続けた。フランスのジャン=フェリシッシム・アドリー(1749-1818)という人物が1807年に出版した『世界のあらゆる民族における幼児・子供向けの遊戯の辞書』という著作も、100年以上前のハイドの文章を再三にわたって引用し、囲碁についても「Hoy Ki、またの名をWei Ki」として紹介している。なおアドリーは、「このゲームには手段の可能性が非常に多く存在すると思われるが、試しにプレーしてみるのは容易であろう」との感想を最後に加えている。(続く)

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年5月8日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(3)ライプニッツとリッチをつなぐ「失われた鎖」

前回、中国で活躍したイエズス会士のマテオ・リッチ著、ニコラ・トリゴー訳・編の『中国キリスト教布教史』に現れる囲碁の描写を紹介した。この本が出版されたのが1615年。そして、ライプニッツが『Annotatio de quibusdam Ludis』の中で囲碁を紹介したのが1710年で、実にほぼ1世紀の差がある。ライプニッツはリッチ=トリゴーの文章を引用しているが、その囲碁に関する分析はリッチ=トリゴーのそれよりも遥かに進んでいるように見える。また、囲碁を打つ人々を描いた中国の挿絵版画を挿入している、という事実も非常に興味深い。というのも、これは実際にやってみると分かるが、絵画を集めた本の中から囲碁を描いた絵を探し出す、という作業は存外大変で、そもそも囲碁がどのような形をしているかを知っていなければいけないし、普段から「囲碁はないだろうか」と頭の片隅にでも気にかけていないとなかなか見つからないものなのだ。こういったことから、ライプニッツの知識を増進させた何者か、何か2つの文書をつなぐいわゆる「失われた鎖」のようなものがあるのではないか、という予感がする。

その「失われた鎖」そのものではないかもしれないが、ヒントとなるようなラテン語の著作が1694年に英国で出版されている。その名も、『De Ludis Orientalibus(東洋のゲームについて)』。著者は、トーマス・ハイド(1636-1703)という、ライプニッツとほぼ同時代に生きた人物である。この中に、リッチ=トリゴーのように人づてに聞いたような説明ではなく、自ら体験した囲碁の説明が現れるのである。

歴史的に見て早い時期に欧州で囲碁に興味を持った人というのは、さすがに特殊な才能を持った人々が多いが、トーマス・ハイドもその一人で、一言でいうと桁外れの語学の天才であり、国外に出たことにはなかったにもかかわらず、多くの東洋の言語をマスターしたという人物である。以下は主にWikipediaからの情報であるが、子供時代に牧師であった父親から東洋言語を複数学び、さらにケンブリッジ大学においても様々な言語を習得。若くして多言語聖書(1652-57年にかけて実施された大プロジェクトで、ヘブライ語、アラム語、サマリア語、シリア語、アラビア語、ペルシア語、エチオピア語、ギリシャ語、ラテン語の9言語による聖書が作成された)のアラビア語、ペルシア語、シリア語の校訂を行った。このほか、ヘブライ語、トルコ語、マレー語といった言語にも長じていたという。その才を活かし、王政復古や名誉革命が発生した政治的に複雑な時期に、チャールズ2世、ジェームズ2世、ウィリアム3世という3人の王の下で東洋からの来賓があった際の通訳を務めたほか、オックスフォード大学ボドリアン図書館館長ともなった。その関心は東洋の言語だけでなく宗教、社会制度などにも及び、中でも『古代ペルシア人の宗教の歴史』(1700年)においては、それまで欧州では古代ギリシャ・ラテン語の文書を通じてのみ知られていたゾロアスターについて、ペルシア語の文書からの知識をもたらした。

トーマス・ハイド。死後、1767年に出版された著作集に見られる版画。

さて、ハイドの『De Ludis Orientalibus』は東洋のボードゲームを紹介する著作で、2部構成となっており、第1部は主にチェスの歴史(ハイドは「チェスがインド起源である」という説を唱えた初めての人物であるという)を扱い、中国の象棋なども説明。第2部ではそれ以外のボードゲームを扱っている。囲碁は第2部、ドラフツの部の最後の部分に置かれており、7ページほどが割かれているそうだ。丸い石をゲームで使うので、チェスではなくドラフツの仲間と見なしたのだろうか。それはともかく、イタリアのゲーム史家で、欧州における囲碁の歴史に関する巨大な著作も残しているフランコ・プラテシ氏の解説(http://naibi.net/d/index.html)を主に参照しつつ、その内容を紹介する。

あくまで個人的な感想であるが、このハイドによる囲碁の説明は新鮮な驚きに溢れていて、内容には勿論ケチのつけようがいくらでもあるが非常に楽しい。ついては、まず是非原文を見てほしい(https://www.babelstone.co.uk/Ludus/Hyde1694.html)。ラテン語が分からずとも、とても面白い図が2つ載っていて、それだけでも見る価値がある。

第1の図は、19路盤の盤面を示している。石は置かれておらず、星も記されていないようだ。しかし天元周辺に、「緯碁 Wei kî」と、漢字とアルファベットが併記(!!!)されている。

第2の図は、なかなか謎めいている。上の列には、「囬碁 Hoy kî」「眼 yèn」「完了 huán leáo」という3つの単語がやはり漢字・アルファベットを併記しつつ並べられている。一方下の列には、以下のようなポジションが3路盤(?)の上に並べられている。左(図2-1)は一見意味不明だが、右(図2-2)はこうすると石が取れますよ、と教えてくれているものと推定できる。

また、上列の「眼 yèn」という単語からは「👉」という指差しマークが延びていて、図2-2とつなげられている。図の下にはラテン語で「Oculus(眼)」と書かれており、石を取ると、眼ができますよと言いたいらしい。左の図2-1の下には「Mos collocandi principio」と書かれているが、これはどうも「始めるにあたっての置き方」といった意味であるらしい。一体これは何であろうか?

図2-1
図2-2

ハイドは、19路盤の盤面を示した第1の図に続いて、
「このゲームは戦争のゲームであり、盤は、中国人と韃靼人の戦場を表している」
と記している。また、用具について360個のガラスの丸い駒を使う(石については、これ以外にも「兵士」という単語で言い換えられている)、盤の大きさは約2フィート(約60センチ)で、石が18個並列できるような幅になっている、といった説明を加えている。続いて、
「このゲームは、『囬碁 Hoy kî』、または、『緯碁 Wei kî』と呼ばれる。どちらも、円、回転、循環のゲーム、といった意味だが、これはむしろ包囲する、と解するのが正しいだろう。というのも、この名前はルールに関係していて、ある1つの石が敵の4つの石に囲まれると、取られるのである」
と囲碁の名前と基本ルール、そしてその関係性を説明する。

現代中国語では、囲碁は「囲棋 Weiqi」である。「囬碁 Hoy kî」「緯碁 Wei kî」という名前は漢字、発音の両面から見ると、似ているような似ていないような感じである。「囬碁 Hoy kî」は日本の「囲碁」の読み違いではないか、という指摘もあるようだが、これらについては寡聞にして分からず、専門家の方々のご意見を待ちたいと思う。

摩訶不思議な第2の図について、であるが、ハイドはまず右、図2-2について案の定石の取り方を説明すると共に、これが「眼」であり、「勝つためには、この状況を再現し、眼を作ることが必要なのだ」、と強調する。図2-1については、「簡単に対局開始時のポジションを示し、黒と白が二子ずつを互い違いに四隅に置きあった状態で対局を始める」と説明している。これはどうも、20世紀の頭まで中国において用いられていた事前置石制を、3路盤の上で強引に表している、ということのようだ。

かつての中国における事前置石制。この状態から、白が第一着を打つ。

これに続くハイドの説明は以下のようなものだ。

  • プレーヤーは眼を作り、敵石を捕獲することを目指す。
  • それぞれのプレーヤーは、小さな容器に入った180個の石を持ち、それを一つ一つ取り出していく。すべての石が初めから盤上に置かれる必要はない。
  • 通常、対局は盤の中央からはじまる。石を置き、それを「プロモート」して、敵の石を包囲し捕獲するのに技術が必要である。
  • お互いが、敵石の捕獲に有効であろうと思われる場所に交代交代に石を一つずつ加えていくので、二人のプレーヤーにとって、敵石を捕獲する、または勝利する確率はまったく同じである。また、プレーヤーがすべての石を置き終わる前に、石が捕獲される可能性もある。
  • このゲームは、2つの軍隊がある地域を巡って争う姿を表現しており、片方のプレーヤーはあらゆる機会を利用して敵の全体または一人の兵士を包囲・捕獲しようとするのである。
  • 上に述べたように、石の逃げ道がなくなると、眼が形成され、石が取られる。斜めの方向は逃げ道とならない。従って、すべての逃げ道を塞いでしまうことが必要だ。
  • 眼を一つ作らなければならないにもかかわらず、盤上に十分な石の数がない、という場合には、新たな石を容器から取り出すことになる。
  • 多くの敵石が盤上のあるゾーンを占領している場合は、ほかの場所に向かったほうがよい。しかしそうした場合、敵も直接攻撃もしくは罠をしかけて戦闘を展開すべく、石を置いて相手を追いかけることになる。
  • 結果がもう変更できない場合、勝者は「完了 huán leáo」と宣言する。「Wei」という言葉でもそうであるが、中国語の「完Huán」は「終り」「終わらせる」「すでに終わっている」など複数の意味を持ち、文章の構成によってのみ意味を区別できる。一方、「了leáo」は単に過去を示す小詞である。
  • 続いてプレーヤーは、占有された陣地(「平原」にあたる言葉が用いられている)と、生存している石(「兵士」にあたる言葉が用いられている)を共に数える。二人のプレーヤーの陣地が明らかに異なる場合は、石を数えるだけでよい。より大きい陣地を持ったプレーヤーは「私はこれだけの部分を持っているが、あなたのはより少ないので、私の勝ちだ」と言う。しかし、片方のプレーヤーの陣地が少なくても、生存した石の数がより多ければ、このプレーヤーの勝ちとなる。
  • こうした説明から、このゲームが偶然や運にはまったく左右されない、純粋な技術のみに頼るゲームであるであることは明らかである。

すっきりしない説明であることは確かで、正しい点も誤っている点もあり、またはっきりしない点も多々あるが、以下のようなことが言えると思う。

  • ハイド自身は、囲碁が「陣取りゲーム」だ、ということは恐らく理解していない。「敵石を捕獲し、眼を形成すること」の重要性が繰り返し強調されていることからもそれが見て取れ、これを読んだ人の中には、むしろそれがゲームの最終目的だ、と勘違いする者も多いかもしれない。一方で、一応、終局後の整地らしき手続きにも触れており、陣地と石の数を数えて多いほうが勝ち、という中国ルールに沿ったような説明がなされている。
  • 「石を置き、それを『プロモート』して、敵の石を包囲し捕獲する」、という文章があるが、この「プロモート」という言葉の意味が不明である。しばらく後に、「眼を作るために盤上に十分な石数がない場合には、新たな石を容器から取り出す」という不思議な一文があり、「十分な石数がある場合は盤上の石を移動できる」、と誤解したのかもしれない。「プロモート」には、ゲームの文脈でいうと「駒を成らせる」というような意味合いもあり、何かそれに似たようなことを考えた可能性もある。
  • 図を通じて、交差点に打つことは明示されているものの、碁盤に関して「19」という数字が出てこない。第1線や、1の1に打つことが想定されているかは定かではない。
  • 囲碁を理解する上で重要な要素のうち、主に以下のようなことが触れられていない。
    • 取られた石は、取り除かれること
    • 石と石のつながりと切断について
    • 眼が2つあると生きになること
    • コウのルール。

ルール面を別にすると、以下のような点が個性的で、目につく。

  • 「中国人と韃靼人の戦場」、「2つの軍隊による闘争」、「兵士」といった表現が用いられ、囲碁が戦争に例えられている。
  • 言語の達人であったハイドだけあって、中国語に非常に注目しながら説明を行っている。漢字とアルファベットの併記、発音区別符号(áなど)の利用や、囲碁の名前に2つの言葉を提示していることもそうであるし、「勝者が『完了』と宣言」(「勝ちました」宣言なのであろうか?)する、というのも、普通の囲碁の説明には到底含められないことで、面白い。なおこの本の中では、象棋の紹介においても漢字が用いられている。また、ほかのゲームに関してはアラビア文字、ギリシャ文字、ヘブライ文字も引用されており、単なるゲーム書という枠を遥かに超えた豊かな著作となっている。

ライプニッツが『東洋のゲームについて』を読んだことがあったかは残念ながら定かではない。誰かを通じて、間接的に話を聞いた、というようなことはあったかもしれないが、両者の文章を読んだだけでは、影響は特定できない気がする。いずれにしても、ハイドの文章の情報量はリッチ=トリゴーのそれとは比較にならない。それもある意味当然で、実はハイドは、これらの囲碁の技術的紹介に先立って、ある中国出身の人物から説明を受けたことを明かしている。これは次回に紹介することとしよう。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年5月1日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(2)マテオ・リッチによる囲碁の描写

前回、17世紀後半から18世紀初頭にかけての知の巨人ライプニッツが囲碁について触れている『Annotatio de quibusdam Ludis』を紹介した。ライプニッツはその中で、中国の文人が囲碁を打つ姿を描いた版画挿絵を紹介。続いて、中国で活躍したイタリア人イエズス会士、マテオ・リッチ(1552-1610)がイタリア語で著し、それをフランス人のイエズス会士、ニコラ・トリゴー(1577-1628)がラテン語に訳した文章を引用している。その内容は、以下のようなものだ。

「これらの遊戯の中でも最も真面目なものを以下に紹介しよう。複数人が、300個の升目のある盤の上で、200個の石(注:「石」と「駒」を同時に意味する単語が用いられている)を用いてプレーする。石は白のものと黒のものとがある。これらの石を使って、一方は、敵の石を盤の中央に押しやり、残る枠を支配しようとする。盤上で敵よりも多くの枠を制した者が勝者となる。
官吏はこの遊戯を非常に好み、しばしば一日の大半を費やしている。というのも、強い打ち手同士になると、一局にまる1時間かかるからだ。この遊戯の達人は、ほかの分野で優れていなくとも、周囲から尊敬され、有名人となる。それどころか、人々がこの遊戯をより深く学ぶために、こうした官吏を師として選ぶことすらよくあるのだ。」

ライプニッツはこの文章に、以下のような注釈を加えている。
まず、「複数人が、300個の升目のある盤の上で、200個の石を用いてプレーする」という点については、「300、ではなく、『300を超える』升目と読むべきだと思われる。また打ち手は複数ではなく、二人しかいない。これはリッチによるイタリア語の文章、もしくはトリゴーによるフランス語の文章をラテン語に訳した者の間違いかもしれない」、「版画挿絵を見れば、間違いがわかる。盤は正方形で、その一辺には18の升目があり、従って升目の総数は、300ではなく、18x18=324となる」と指摘している。更に、「それ以外の説明も納得がいくものではない。片方の打ち手が、敵を盤の中央で包囲する、というのは、あくまで一つの可能性であって、必然なものではない」と述べ、真ん中ではなく、隅で包囲する可能性もあるからだ、と囲碁的に見てなかなか鋭いコメントをしている。そして「我々はこのゲームのすべてのルールを知らないのであろうが、石の数の多さ、盤の大きさから見て、このゲームをプレーするにあたっては最高の創意工夫が要求され、最大の困難を伴うことは間違いないと私は信ずるものだ」と述べている。また、「殺戮、流血なしに勝利すること」をライプニッツが評価したのは前回説明したとおりだ。

さて囲碁人としては、
「ライプニッツは、版画の中で、石が枠内ではなく交差点に打たれていることに、疑問を感じなかったのだろうか?」
「ライプニッツはこの版画と、リッチの文章のみを元にこの小論文を作成したのだろうか?」
という2つの疑問がわく。勿論、両方とも答えることは不可能であるが、第1の疑問については、チェスやドラフツは枠内に駒を置くので、「絵の中では交差点に打っているようだが、変だな」くらいにしか思わなかったのかもしれないし、ましてや角や一線に打つ可能性については想像だにしなかったのかもしれない。一方、第2の疑問はなぜ浮上するか、というと、版画内の碁盤を見るに(こうしたミスは囲碁を描いた絵画には頻出するものではあるが)、ライプニッツが言うように「18x18の正方形」ではなく、17x19の線(枠でいうと16x18)が引いてあるからである。ライプニッツは、もしかしたらこの他に、囲碁を描いた絵であるとか美術品、または文章に接していたのかもしれないし、知り合いのイエズス会士の中に囲碁を知っている人がいて、その証言を得たのかもしれない。そもそも、ライプニッツはどうしてこのリッチ=トリゴーの文章を知っていたのだろうか?

これについては、ベルギー囲碁連盟のジョエル・ソーサン氏が著した『17世紀の欧州における囲碁』という記事(https://www.gofed.be/files/belgo%203.pdf)がヒントを与えてくれる。この記事自体は1985年のベルギー囲碁連盟機関紙に発表されたものだが、1982年に『Go World』誌上に発表されたオランダのヤープ・K・ブロム氏の研究をベースにしているという。それによると、17世紀になって、いくつか囲碁について記した文書が欧州に現れるが、そのうち主要なものは2つあり、そのうちの一つが、ライプニッツが引用したマテオ・リッチ著、ニコラ・トリゴー訳の文書であった(もう一つについては、次回紹介する)。

リッチおよびトリゴーが属したイエズス会がイグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)およびフランシスコ・ザビエル(1506-1552)によってパリで設立されたのは1534年。ザビエルがアジアでの布教を目指し、1549-51年にかけて日本にまでやってきたのは御存知の通りである。ザビエルは日本において中国からの思想上の影響が大きいことに注目し、アジアでの布教にあたっては中国での活動が不可欠だ、と考えた。それはなかなか実現しなかったが、その後数十年を経て、ようやく中国本土に長期的に滞在し、本格的な活動を行ったのがリッチであった。リッチは1582年にポルトガルの居留地があったマカオに赴き、中国語と中国文化を学ぶ。その後、中国南部で20年近くを過ごした後、1600年頃北京の宮廷に招かれ、明の万暦帝の信頼を得た。リッチは数学、天文学、地理、音楽など様々な学問に通じていたほか、中国文化にも深い知識を蓄積し、自ら儒者の服を纏って現地に順応しつつ布教を行う道を選んだ。こうした手法が活動の成功につながった、とされる。

儒者の衣服に身を包んだマテオ・リッチ。

ライプニッツが引用した文章の原文は、リッチが1600年以降、1610年に亡くなるまでにかけての最晩年に、イタリア語で執筆した回想録の一部を成すものだという。リッチはイエズス会の同僚に中国についての情報と布教の進捗状況を知らせるために、回想録を著した。その中で、中国風俗の一部として様々なゲームも紹介。象棋といったゲームについての説明に続いて、「これらの遊戯の中でも最も真面目なもの」として囲碁を紹介しているわけである。ただし、文章を見てもわかるように、リッチ自身は囲碁のルールを理解していなかった。ソーサン氏は「もしかしたら、リッチは中国人との会話を通じて、または中国語で書かれたゲームに関する書物を読んで囲碁の存在を知っただけなのかもしれない」と述べているが、確かにリッチが囲碁の対局をじっくりと見つめたことがあるとは(特に「交差点」ではなく「枠」と言っていることからしても)言えないだろう。

リッチの回想録を欧州に知らしめたのが、ニコラ・トリゴーである。トリゴーは丁度リッチが亡くなった1610年頃に中国に赴くが、1613年に欧州に一旦戻って教皇パウルス5世に対して布教に関する報告を行うと共に、新たなイエズス会士を中国に招来することを要請する、という任務を与えられる。トリゴーはこの旅の間、リッチの回想録をラテン語に翻訳。ほかのイエズス会士の書簡なども加えた著作を完成させた。この著作は『中国キリスト教布教史』として1615年にドイツのアウグスブルクにおいて出版されると、中国に関する貴重な専門書として評判を呼び、再版を重ねただけでなく、出版直後からフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語といった言語に翻訳された。ライプニッツは「トリゴーがリッチのイタリア語原文をフランス語に訳し、それを誰かがラテン語に訳した」と勘違いしているようだが、それもこの本について様々な版が出回っていた証拠であるかもしれない。

ソーサン氏によると、リッチのイタリア語原文とトリゴーのラテン語訳の間では微妙な違いが見られる。例えばリッチの原文では囲碁の説明として、「200を超える石を伴う『ゲーム』」である、と記されているが、この『ゲーム』(giuoco)という単語が「一局」のことを示すのか、ゲームそのものを示すのかがやや曖昧であり、つまり「一局で使われる石の数が200を超える」と言いたいのか、「ゲームに存在する石の数が200を超える」と言いたいのかがはっきりしない。トリゴーは後者の解釈を採っているが、これはトリゴー自身も囲碁をまったく知らなかったことを示すのだろう、とソーサン氏は推測する。

ルーベンスが描いたニコラ・トリゴー。
中国語を初めてローマ字で記した。

『中国キリスト教布教史』が大反響を呼んだことに伴い、その中に現れる囲碁の描写も17世紀中に複数の著作で引用されことになる。中でも注目されるのは、ドイツ北西部ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国の領主だったアウグスト2世(1579-1666)がグスタヴス・セレヌスのペンネームの下で著した、ドイツ語初のチェスの教則本『チェスあるいは王の遊戯』にこの部分が引用されていることである。この本は1616年、すなわち『中国キリスト教布教史』の翌年に出版された。

アウグスト2世。

アウグスト2世は、トリゴーのラテン語訳に基づきつつ、「一方は、敵の石を盤の中央に押しやり」という部分を、「一方は、敵の石を盤の中央に追って、囲い」と訳しているそうだ。ソーサン氏は、「囲う、という、石取りのルールを思わせる言葉が加えられていることは、ほかに情報源があったことを示すのかもしれないが、おそらくはアウグスト2世の演繹的思考が導き出した偶然の一致なのだろう」と述べている。その一方で、単なる偶然の一致と思えないのが、ライプニッツが『Annotatio de quibusdam Ludis』の中でアウグスト2世の『チェスあるいは王の遊戯』を褒め称えていることである。ライプニッツは、『中国キリスト教布教史』と『チェスあるいは王の遊戯』の両方を読んで囲碁を発見し、「ほう、こんなゲームがあるのか…」と気になって色々と調べていたのかもしれない。

ちなみに、リッチ=トリゴーの囲碁の描写は、その内容が漠然としていることから、誤解を招くこともあったようだ。例えば、オランダ東インド会社に勤めたヤン・ニーホフ(1618-1672)の手になる中国に関するオランダ語の著作『オランダ東インド会社の中国皇帝付き大使館』(1665年出版)の中では、「盤上遊戯で、盤の中には一つの穴とその周りに300の小さな家があり、白と黒の小さな玉を用いる。一方は玉を使って敵の玉を穴の真ん中に押しやり、すべての家を獲得しようとする」と訳されているという。ソーサン氏は、「当時何よりも人気が高かった、サイコロを使ったボードゲームの類を想像したのだろう」と推定する。

それはさておき、ライプニッツは1680年前後から中国に関心を持ち、中国で活動したイエズス会士と積極的に交流し、中国についての知識を深めた。その関心は、中国語、中国の数学、哲学など広大な範囲に及び、晩年には『中国最新事情』(1697年)、『中国自然神学論』(1714年)といった著作も残している。ライプニッツは遠い中国に欧州を補完する存在を見た。囲碁への興味も、こうした流れの中にある。

ヤン・ニーホフ。中国をはじめ、ブラジル、インド、マダガスカルにまで足を伸ばした。その著作は仏、独、英、ラテン語といった言語に訳され評価されたという。

ライプニッツは、曖昧模糊としたリッチ=トリゴーの文章から出発して、情報不足による誤りや中国に対する憧憬が生む強引な解釈はあるものの、なかなかに鋭い考察を加えた。また、さり気なく中国の挿絵を紹介した点も見逃せない。『Annotatio de quibusdam Ludis』に含まれる囲碁の紹介は長いものではないが、これは、長年にわたる調査と探求の結晶なのではないだろうか。前回、フランス現代哲学の大家ジル・ドゥルーズの「ライプニッツが囲碁についてここまでの知識を持っていたのはとても不思議なこと」という言葉を紹介したが、私も同感であり、その理解度は近代に至って本格的に囲碁が欧州に知られるようになるまで、何者も比肩できない高みにあったと言えるだろう。

ウクライナでの欧州囲碁コングレス、2021年に延期

ウクライナでの開催が予定されていた今夏の欧州囲碁コングレスは、2021年に延期された。コングレスは南西部カームヤネツィ・ポジーリシクィイにおいて7月末から8月頭の開催が予定されていた。新たな日程は今の所決まっていない。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年4月22日 ]

欧州における囲碁の歴史的記録(1)ライプニッツと囲碁

欧州が新型コロナウイルス流行の新たな中心地となる中で、欧州囲碁界では現在のところ、6月までの大会がほぼすべてキャンセルとなり、夏以降の大会の開催も不透明な状況が続いている。プレーヤーは活動の軸足をインターネットに移してサバキ、シノギを図っているが、その分、残念ながらお伝えするべきフレッシュなニュースがほぼ枯渇してしまった。

新鮮なものがなければ古きものを訪ねよう、というわけで、この機会を利用し、特別編として、欧州の囲碁史にまつわる様々な逸話を何回かに分けてご紹介したいと思う。ただし、あくまで手元にあるわずかな資料と、インターネット上での検索のみを元にした作業であるため、学術的な価値を目指したものではないことをはじめにお断りしておく。

第1回は、「ライプニッツと囲碁」。

ライプニッツ。

もう数年前のことになるが、哲学を専門とする友人が「ライプニッツが囲碁について語っている文書が手に入ったぞ」といってあるpdfファイルを送ってくれた。面白そう、と思った反面、正直、困ったなと思った。哲学は専門外でまるで何も知らないし、そもそも原文がラテン語で、こちらが読めないのは当然として、付された英語訳も直訳風の非常に読みにくいものだったからだ。外出制限で家に缶詰になっていなかったら改めてとりあげる気もしなかったであろう、まさに塞翁が馬。

とそれはともかく、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)はドイツの哲学者、数学者、政治家、外交官で、「デカルトやスピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である」とWikipediaにある。「最後の万能の(ユニバーサルな)天才」とも呼ばれるという。

大雑把に同じ世代の人々としては、欧州ではスピノザ(1632-1677)のほか、ロック(1632-1704)、ニュートン(1642-1727)、ルイ14世(1638-1715)、モリエール(1622-1673)、ピョートル大帝(1672-1725)、中国では康煕帝(1661-1722)、日本では徳川綱吉(1646-1709)、徳川光圀(1628-1701)、松尾芭蕉(1644-1694)、関孝和(?-1708)、囲碁界では黄龍士(1651-1700?)、本因坊道策(1645-1702)、渋川春海こと安井算哲(1639-1715)といったあたりが挙げられる。欧州も、中国も、日本もなかなか華やかな時代である。一方で、ライプニッツの生きたドイツは、悲惨な宗教戦争である三十年戦争が1648年に終わったばかりで、小国分裂状態が続きフランスなどの後塵を拝していたが、その分復興に向けたエネルギーの渦巻く時期でもあったようだ。

ライプニッツの業績は、というと、これまたWikipediaの引用になるが、「17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる」。このほかでは、2進法の研究なども高く評価されているようだ。ライプニッツは、君主、学者など様々な同時代人と文通。非常に多くの分野に興味を持ち、欧州だけにとどまらず中国の数学、哲学などにも積極的に興味を示した。「万能の天才」と呼ばれる所以である。

「モナド(単子)」「予定調和」「弁神論」といった考えが中心を成すその哲学に関して、フランスでは、やや後の世代となるヴォルテール(1694-1778)の風刺小説『キャンディード』に現れるパングロス先生のモデルになった、ということがよく言われるようだ。パングロスは、主人公キャンディードの家庭教師で、「この世はあらゆる世界の中でも最善で、起こることすべてが最善なのだ」と、いかに悲惨な状況にあっても楽観主義にしがみつく、というある意味ヴォルテールの皮肉の的を凝縮したような存在だ。勿論、ライプニッツの哲学そのもののニュアンスはやや異なるようであるが、IA流といって猫も杓子も三々に入るのと同じで、一般にはそういう理解のされ方をしていたのであろう。

前置きが長くなったが、ライプニッツが囲碁について触れた肝心の文章について見てみよう。題名は『Annotatio de quibusdam Ludis(あるゲームについての注解)』といい、副題に「特にある中国のゲームについて、またチェスとラトルンクルス(注:「泥棒ゲーム」という古代ローマのゲーム)、新たな種類の艦船ゲームについて」と続く。実は、『ゲーム覚書』というタイトルで日本語訳も出版されているようなので(『ライプニッツ著作集 第II期 第3巻 技術・医学・社会システム』、2018年、工作舎)、興味のある方はそちらを参考にしていただきたい。執筆時期は1710年と、ライプニッツの最晩年にあたり、ライプニッツの提案で創立されたプロイセン科学アカデミーの機関紙『Miscellanea Berolinensia(『ベルリン論叢』)』の中で発表された小論文の一つであるようだ。

ライプニッツは冒頭、「人間が最も創意工夫にあふれているのは、ゲームの機会にほかならない、ということに我々はしばしば気づかされてきた。だからこそ数学者が、ゲームに対して、ゲームそのもののためではなく、発見術(注:数学的手法を通じて真実を発見するための手段、という意味で、ライプニッツにおいて一つのキーワードとなっている)として、注目する価値があるのだ」と述べる。これはライプニッツが好きな言葉であったのか、最晩年の大著『モナドロジー』の執筆を依頼したほどのライプニッツ・ファンであったというフランス人ニコラ・レモンに宛てた手紙の中でも、「これは何度も述べてきたことですが、人間はゲームや戯れ事において最も創意工夫を発揮するように見えるのです、哲学者もそれを活用して、教養と思考力とを高めなければなりません」といった言葉が見える。

ライプニッツはこれに続いて、ゲームをいくつかの種類に分類し、「運に左右されるゲーム(注:サイコロを使ったゲームなど)は、確率の計算に特に有益だ」、また「ゲームの中でも、運と、技術を組み合わせたゲーム(注:ライプニッツはこの例として、バックギャモンの祖先であるトリックトラックを挙げている)は、人生に最も似ている」と述べ、特に、軍事や、医療では技術だけでなく偶然の出来事も関係するものだ、と語る。この次に来るのが、全く運の要素がなく、技術だけが頼りになる、ある意味科学的なゲームで、ライプニッツはその代表としてチェスを挙げる。そして、同じ文脈の中で、囲碁も語られることになる。

ライプニッツは、囲碁の名前を知る術がなかったのだろう、ただ「ある中国のゲーム」と呼んでいる。そして、囲碁の姿を紹介するために、わざわざベルリン王立図書館所蔵の中国絵画を納めた本の中から、中国の文人が囲碁を打つ姿を描いた版画挿絵(https://www.milestone-books.de/pages/books/003075/gottfried-wilhelm-leibniz/miscellanea-berolinensia-ad-icrementum-scientiarum-ex-scriptis-societati-regiae-scientiarum)を記事に挿入している。五代十国の画家、周文矩による『重屏会棋図』を想起させるような絵だ。

ライプニッツは続いて、囲碁が運に左右されず、技術だけで勝つべきゲームであること、また盤上から石や駒を徐々に取り除いていくのではなく、盤上を埋めつつ相手を囲うゲームであることを説明。勝者は、相手から動きの自由を奪った者で、いわば「殺戮も、流血もなく」勝たなければならず、これはほかのゲームにも存在する性格ではあるが、このゲームにおいてはそれがルールなのだ、とその特徴を強調する。

欧州で一般に広まっているチェスやドラフツと違い、相手を捕まえ、取り除くことが最終目的ではないことに、ライプニッツは特に興味をそそられたようであり、囲碁の説明の最後の部分で改めてこの点に触れ、「このゲームを生み出したのが、殺戮を嫌悪し無血の勝利を望んだというバラモン(司祭)である、という説は信用できる。東インドでは、戦争において殺人を避けることが決まりとされるなど、多くの人が、キリスト教徒を自称する人々よりもキリスト教的な行動をすることは知られている」との説を展開している。また数年後、ニコラ・レモンに宛てた手紙の中で、「私が、『ベルリン論叢』の中で、中国人のゲームについて述べた事柄を御覧になったかもしれません。このゲームでは、戦うことをせず、自分から閉じこもったり、相手を飢えさせたりして、要するに、相手の降伏を強いるのです」と述べている。

フランス現代哲学の大家の一人であるジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、ライプニッツについての1987年の講義の中で、以下のような余談(https://www.webdeleuze.com/textes/137)を披露しているそうだ。
「17世紀に、主要なゲーム理論の構築が始まり、ライプニッツもこれに貢献しました。ライプニッツの博識を示す言葉を紹介しましょう。なんと、ライプニッツは囲碁を知っていたのです。大変興味深いことです(笑)。ライプニッツは、とても驚くべき小論文の中で、囲碁とチェスを比較し、「つまるところ、2種類のゲームがある」と言っています。ライプニッツ自身は、「囲碁」という単語を用いず、「ある中国のゲーム」と呼んでいますが、囲碁とチェスの違いについて…そして、その説明は非常に正しいのですが…、チェスは、「捕まえる」ゲーム、すなわち駒を取るゲームである、(…)チェスとドラフツでは取り方は異なったり、ゲームによって色々な取り方が存在しますが、これらはいわゆる捕獲ゲームであるのに対して、囲碁では、相手を捕まえる、というのではまったくなく、孤立させ、無力化し、囲むのだ、と言っています。ライプニッツの「博識な言葉」と言いましたが、というのも、20世紀の初めに出版されたルイ・クチュラ(1868-1914)によるライプニッツの校訂本を見ると、クチュラは数学、ライプニッツについて共に非常に優秀な専門家だったにも関わらず、ライプニッツによるこの中国のゲームについての説明に関しては、「これこれこういう著作を参照」と記し、囲碁について少しばかり記述したついでに、「中国の専門家が我々に説明したところによると、こういうゲームだそうだ」と頼りない解説をするにとどまっているのです。つまり、クチュラの時代には囲碁は全然知られておらず、囲碁がフランスに入ってきたのは非常に最近のことで、(ライプニッツが囲碁についてここまでの知識を持っていたのは)とても不思議なことと言えるでしょう。」
ドゥルーズの話が、『Annotatio de quibusdam Ludis』を念頭においていることは言うまでもない。

さてライプニッツが理解した囲碁のルール、とはいかなるものだったのだろうか。実は、ライプニッツはこの文章の中で、囲碁の説明として、中国で活躍したイタリア人イエズス会士、マテオ・リッチ(1552-1610)が著した文章を仏人のイエズス会士、ニコラ・トリゴー(1577-1628)が訳したものを引用し、これに批評を加えている。これについては、次回紹介することにしよう。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年4月3日 ]

欧州青少年選手権、クロアチアで開催

3月11-14日にかけて、クロアチア・ザグレブ郊外の保養地ストゥビチュケ・トプリツェにおいて欧州青少年選手権が開催された。クロアチアは数年来、ダミール・メダック氏のイニシアチブの元で積極的な囲碁普及活動を行っている。イタリアにおいて新型コロナウイルスの感染拡大が問題となり始めた時期だったが、なんとか開催にこぎつけた。全体では162人が参加し、例年と比べても大規模な大会となった。このうち、イタリアなど一部国の選手は、インターネットを通じて参加し、不正防止のためにビデオでの撮影を義務付ける、といった措置がとられた。

会場の様子。(欧州囲碁連盟、クロアチア囲碁連盟、以下同)
クロアチア・チームはユニフォームを揃えて大会に参加。

6回戦の結果は以下の通り。

12歳未満(参加者:64人)
順位 名前 段位 勝敗
1 フセヴォロド・オフシェンコ 2d ウクライナ 5-1
2 アスカル・フサイノフ 3d ロシア 5-1
3 エゴール・ラヴロフ 2d ロシア 4-2
4 アルトゥール・ギマディエフ 1d ロシア 4-2
5 ルスラン・タラソフ 1d ロシア 4-2

先日、ルーマニアの冬季囲碁フェスティバルで大活躍したオフシェンコ2dが2連覇を果たした。フサイノフ3dは最終戦でオフシェンコ2dに勝利、同率ながら2位に終わった。2位以下をロシア勢が占めるのは例年の構図である。

16歳未満(参加者:61人)
順位 名前 段位 勝敗
1 リンヴ・トゥ 4d フランス 5-1
2 アレクサンドル・ムロムチェフ 2d ロシア 5-1
3 ダヴィデ・ベルナディス 2d イタリア 4-2
4 ラフマート・デメンシン 2d ロシア 4-2
5 アルテミー・ピシュシャルニコフ 2d ロシア 4-2

フランスのトゥ4dが優勝した。フランスの選手が青少年選手権で優勝するのは2003年以来。ロシアのムロムチェフ2dが同率で2位。またイタリアのベルナディス2dが3位に入賞したのが注目される。

20歳未満(参加者:37人)
順位 名前 段位 勝敗
1 アントン・シェルニフ 6d ロシア 6-0
2 シナン・ジェポフ 5d ブルガリア 5-1
3 エリアン=ヨアン・グリゴリウ 6d ルーマニア 4-2
4 ギヨーム・ウジエ 3d フランス 4-2
5 メジン・サフヴァ 2d ロシア 4-2

ロシアの強豪シェルニフ6dが全勝優勝、これにブルガリアのジェポフ5d、ルーマニアのグリゴリウ6dが続いた。

各部門の優勝者。左から、U12のオフシェンコ2d、U16のトゥ4d、U20のシェルニフ6d。
参加者マップ。欧州45都市から参加があった。
開会式にて。第6回となる、インターネット青少年国別対抗戦の表彰式が行われた。第1-5回はロシアが優勝していたが、今回はドイツが全勝優勝を果たした。大会には16カ国が参加した。
グループ写真。

新型コロナウイルス禍:インターネットでの大会が盛況

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大が3月以降欧州で激化、大会が相次いでキャンセルとなっているほか、外出制限でクラブ活動もままならない中で、囲碁界はインターネット上での活動に軸足を移している。

▽コロナカップ
チェコのルカシュ・ポドペラ7dが音頭をとって、インターネット上での大会を開催している。その名も、「コロナカップ」。欧州らしいユーモアである。イエナ囲碁スクール、チェコ囲碁協会が協賛し、参加者は、なんと360人に達した。時間設定は45分+秒読みという早碁である。
対局は3月最終週に始まっており、5回戦または6回戦で、5月頭までにすべての対局を打ち切る予定。さながら、オンラインの囲碁コングレスといった活況を呈している。

主催者のポドペラ7d。(写真:Adriana Tomsu)

▽欧州プロ・オンラインリーグ
欧州囲碁連盟(EGF)のプロが、リーグ戦方式で対局するオンライン大会が3月末から始まった。参加するのはイリヤ・シクシン3p、パヴォル・リジー2p、アルテム・カチャノフスキー2p、アリ・ジャバリン2p、アンドリー・クラヴェッツ1p、タンギー・ルカルヴェ1pの6人。マテウシュ・スルマ2pは、めでたく父親となったばかりで忙しいため参加を見合わせた。考慮時間は10分+1手30秒の秒読みという早碁。各組み合わせでは、お互い手番を入れ替え、黒番、白番と2局対局する。毎週対局が組まれ、Twitch(アマゾンのゲームストリーミングプラットフォーム)を通じた中継もなされる。

▽欧州・中国オンライン対抗戦

EGFと中国囲碁協会の協力で実現したチーム対抗戦。いわゆる農心杯システムの勝ち抜き戦である。お互いのチームは10人から構成され、欧州からはアリアーヌ・ウジエ4d、バンジャマン・ドレアン=ゲナイジア6d(フランス)、アントン・シェルニフ6d(ロシア)、クリスティアン・ポップ7d(ルーマニア)、ルカシュ・ポドペラ7d(チェコ)、アレクサンドル・ディナーシュタイン3p(ロシア)、アリ・ジャバリン2p(イスラエル)、スタニスワフ・フレイラック7d(ポーランド)、アルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、マテウシュ・スルマ2p(ポーランド)が参加する。中国側も、世界アマ優勝経験者である胡煜清7d、白宝祥7d、王琛7dなど強力なメンバーを揃えている。4月2日時点では、1勝1敗となっている。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年3月16日 ]

新型コロナウイルス感染拡大の影響、欧州囲碁界にも波及

新型コロナウイルスの感染拡大が、3月半ばに入り欧州囲碁界にも具体的な悪影響を及ぼし始めた。
欧州囲碁協会(EGF)は3月初頭、サイトを通じて、以下のような発表を行った。

  • ・3月12-14日にクロアチアで予定される欧州青少年選手権は、開催する。
  • ・今夏ウクライナの欧州囲碁コングレスの枠内で行われる欧州選手権も開催する。
  • ・また夏までのEGF関連行事もすべて予定通り開催する。

すなわちすべて予定通り開催、ということで、実際クロアチアでの欧州青少年選手権は、160人を超える参加者を集め盛大に開催された。こちらについては後日別記事で報告するが、イタリアなどリスクのある複数国の選手は、オンラインの囲碁サーバーを通じて大会に参加。不正行為防止のため、対局姿のビデオを主催者に送ることが義務付けられた。

しかし、スペイン、フランス、ドイツといった国を中心に感染者数が急速に増加し、非常事態宣言を発したり入国規制などを導入する国が続出する中で、EGFは数日で方針転換を余儀なくされた。14-15日にかけての週末には各地で大会中止・延期の決定が相次いだ。EGF関連の大会では、3月19-22日にオーストリア・ウィーンで予定されていた欧州プロ選手権、4月4-5日にセルビア・ニシュで予定されていた欧州ペア碁選手権、また4月11-13日にフランス・パリで予定されていたグランドスラム予選会が延期となった。このほか、ポーランド、スロバキア、スイス、フランス、ドイツなどでも相次いで大会中止・延期が発表されている。

フランスでは12日から14日にかけて、政府が一連の感染拡大防止策を発表し、学校、大学などの教育機関に加え、レストラン、カフェなど生活に必須ではないと見なされる施設が閉鎖されることとなった。これを受けて、仏最大の大会の一つであるパリ大会(4月11-13日)が中止を発表。またレストランやカフェに夜集まることの多い囲碁クラブも、集会場所を失うこととなった。

欧州囲碁協会のサイト。中止または延期になったイベントに横線が引かれ、痛々しい。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年3月2日 ]

ヴァレリー・シクシン氏が死去

ロシア囲碁界の長老、ヴァレリー・シクシン氏が2月18日に亡くなった。71歳だった。シクシン氏はスヴェトラナ・シクシナ3p、イリヤ・シクシン3pの父親。シクシン氏はエンジニアだった1970年代に職場で囲碁に出会った。その後1990年代に入り、囲碁指導に専念するために離職。二人の子供のほか、カザンにおいて、このほかにもアレクサンドル・ディナーシュタイン3pなど数々の強豪を育てた。

サンクトペテルブルクで中国総領事杯が開催

ロシアでは2月23日が「祖国防衛の日」の祝日となっている。今年はこの日が日曜日にあたったため、それに続く月曜日が振替休日となった。この連休を利用して、サンクトペテルブルクでは、第11回目となる中国総領事杯に加え、ペア碁選手権、女流選手権といった一連の大会が開かれた。メインとなる中国総領事杯には133人が参加した。ロシアは昨年以来、大規模な大会を国外の強豪にも開放するようになってきており、今回も金栄三8d、金成進8d(共にドイツ在住)、アルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、ルカシュ・ポドペラ7d(チェコ)などが参加した。

会場の様子。(写真:ミハイル・クリロフ、ロシア囲碁連盟、以下同)
金永三8dとカチャノフスキー2pの対局。

6回戦の結果、全勝のない混戦となり、金栄三8d、金成進8dとイリヤ・シクシン3pが1敗で並んだが、規定の結果優勝はベルリンで囲碁指導をしている金成進8dとなった。2位は金栄三8d、3位はシクシン3pだった。これにカチャノフスキー2p、アレクサンドル・ディナーシュタイン3p、ポドペラ7dが続いた。

中央が優勝した金成進8d。シクシン3pとの検討。この碁はシクシン3pが勝利。
ロシア女流選手権を制したブルダコヴァ6d。ライバルのコヴァレヴァ5d、若手のシャルネヴァ4dなどを抑えて優勝した。女流選手権の参加者は16人。
ペア碁選手権の様子。27ペアが参加して盛況だった。
ペア碁選手権に優勝したファズルジャノヴァ/ディナーシュタイン・ペア。

ルーマニアで冬季囲碁フェスティバルが開催

ルーマニア北部ヴァトラドルネイにおいて、2月中旬に冬季囲碁フェスティバルが開かれた。このフェスティバルは、同地出身のツァラヌ・カタリン5pが主導して数年来開いているもの。欧州若者向けの大会ツアーである「Seygo Tour」大会に加え、ペア碁大会、メイン大会であるVaDo Cupといった大会が開かれた。全部で100人を大きく超える参加者があった。

囲碁フェスティバルの横断幕。(写真:欧州囲碁連盟、以下同)
本大会ではウクライナの若手、フセヴォロド・オフシェンコ2d(11)が大活躍。Seygo Tour大会ではルーマニアのグリゴリウ6dを初戦で破って全勝優勝を収めたほか、VaDo Cupでもオーストリアのヴィクトール・リン6dを破って8位に食い込んだ。新スター誕生である。
ペア碁大会優勝のグリゴリウ6d(ルーマニア)/メダック2d(クロアチア)ペア。
VaDoカップ優勝の金栄三8d。

メイン大会のVado Cupでは、6回戦の結果ドイツ在住の金栄三8dが全勝優勝を収めた。2位はドミニク・ボヴィズ6d(ハンガリー)、3位はアルテム・カチャノフスキー2p(ウクライナ)、4位はコルネル・ブルゾ7d(ルーマニア)、5位はニコラ・ミティッチ7d(セルビア)だった。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年2月18日 ]

グルノーブル国際囲碁大会が開催

仏グルノーブルにおいて国際囲碁大会が2月1-2日にかけて開催された。グルノーブルは現在フランス国内で最も活力のあるクラブ。ベテランのドミニク・コルニュエジョルス会長およびグルノーブル在住で仏囲碁協会指導員を務める黄仁聖8dなどのイニシアチブにより、3年前から国際囲碁大会を開催している。

会場の様子。(写真:Olivier Dulac、以下同)

3度目となる今回の大会の参加者数は欧州各国から強豪が集まったほか、中国からの訪問団もあり157人と過去最高を記録した。特にトップグループの「エリー杯」には、中国棋院の呉天2pを含め、6d以上が13人参加した。

大会のトップグループ「エリー杯」のスポンサーである黄仁聖8dによるライブコメント。
エリー杯の決勝、呉天2pとシクシン3pとの対局。

決勝は呉2pとロシアのイリヤ・シクシン3pとの間で争われ、呉2pが中押し勝ちを収めて優勝した。3位には第1回、2回目の優勝者である呉治民8d、4位にはフランスのバンジャマン・ドレアン=ゲナイジア6dが入賞した。

日曜日に開催された子供向けの大会。
成績優秀者。左から呉2p、シクシン3p、呉8d、ドレアン=ゲナイジア6d、オスカル・ヴァスケス6d(5位)、アリ・ジャバリン2p(6位)、黄8d、金成進8d(8位)、コルニュエジョルス会長。
大会に先立って、一週間にわたる「囲碁スキー合宿」がグルノーブルから1時間ほどのスキー場で開かれた。
合宿における対局の様子。

[ 記事:野口基樹 ]

囲碁ニュース [ 2020年1月27日 ]

欧州グランプリファイナル、スルマ2pが優勝

欧州グランプリファイナル大会が1月16-19日にスウェーデンのレクサンドにおいて開催された。グランプリファイナル大会は、2019年に欧州グランプリを構成した15大会における成績優秀者16人が参加する大会である。まず4人ずつのリーグ戦で決勝ステージ進出者を決定。以降はノックアウト方式で優勝を争う。

予選リーグの結果は以下の通り。

Aグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 ニコラ・ミティッチ 7d セルビア 2-1
2 マテウシュ・スルマ 2p ポーランド 2-1
3 ルカシュ・ポドペラ 7d チェコ 2-1
4 ドミニク・ボビーズ 6d ハンガリー 0-3

2勝1敗で3者が並ぶ激戦となったAグループ。ニコラ・ミティッチ7dとスルマ2pが枠抜けした一方、ポドペラ7dが涙をのんだ。ミティッチ7dはスルマ2pを破った星が光る。

Bグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 イリヤ・シクシン 3p ロシア 3-0
2 バンジャマン・ドレアンゲナイジア 6d フランス 2-1
3 オスカル・ヴァスケス 6d スペイン 1-2
4 コルネル・ブルゾ 7d ルーマニア 0-3

シクシン3pが圧倒した。もう一人の枠抜けは、フランスのドレアンゲナイジア6d。最終戦でヴァスケス6dとの接戦を制した。

Cグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 アンドリー・クラヴェッツ 1p ウクライナ 2-1
2 アルテム・カチャノフスキー 2p ウクライナ 2-1
3 アリ・ジャバリン 2p イスラエル 2-1
4 デュシャン・ミティッチ 7d セルビア 0-3

3人のプロが入ったCグループも激戦となった。2勝1敗で3人のプロが並んだが、クラヴェッツ、カチャノフスキーのウクライナ勢が枠抜けした。

Dグループ
順位 名前 段位 勝敗
1 ダニエル・フー 5d 英国 2-1
2 スタニスワフ・フレイラック 7d ポーランド 2-1
3 パヴォル・リジー 2p スロヴァキア 1-2
4 タンギー・ルカルヴェ 1p フランス 1-2

最も番狂わせとなったのがDグループ。リジー、ルカルヴェの両プロが脱落し、先日ロンドン大会で優勝した新鋭のフー5dが1位、ポーランドのフレイラック7dが2位通過した。

決勝トーナメント1回戦では、フレイラック7dが激しい戦いの末に昨年の覇者シクシン3pに半目勝ちを収めた。また、今大会の台風の目となったフー5dはドレアンゲナイジア6dを破った。準決勝ではスルマ、フレイラックのポーランド2強が対決、こちらはスルマ2pが貫禄を見せ、フー5dを止めたカチャノフスキー2pとの決勝に臨んだ。

フレイラック7d(右)はシクシン3pを破った。(写真:欧州囲碁連盟)
スルマ2p(左)対カチャノフスキー2pによる決勝の様子

決勝は、スルマ2pが序盤から優勢に打ち進め、中押勝を収めた。「予選ステージ第1局目で(ミティッチ7dに)負けたときはもうだめかと思ったが、尻上がりに調子が良くなった。決勝はプレッシャーなく打てた」と語った。

決勝トーナメントの結果は以下の通り。

ニコラ・ミティッチ カチャノフスキー カチャノフスキー スルマ
カチャノフスキー
ドレアンゲナイジア フー
フー
スルマ スルマ スルマ
クラヴェッツ
シクシン フレイラック
フレイラック
検討の様子。左からシクシン3p、クラヴェッツ1p、フー5d、ヴァスケス6d。

[ 記事:野口基樹 ]

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